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藤原俊憲

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藤原 俊憲(ふじわら の としのり)は、平安時代後期の公卿学者歌人藤原南家貞嗣流、少納言・藤原通憲(信西)の長男。藤原北家真夏流(大福寺流)、参議・藤原顕業の養子。官位従三位参議

概要 凡例藤原 俊憲, 時代 ...
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経歴

文章博士藤原顕業の養子として儒官の道に進み、鳥羽院政期康治元年(1142年文章得業生となり、康治3年(1144年対策に及第して、大学権助に任ぜられる。のち、式部少丞六位蔵人刑部大丞を経て、仁平4年(1154年従五位下叙爵

若年より実父・信西譲りの才智をもって登用され、久寿2年(1155年立太子して間もない守仁親王(のち二条天皇)の東宮学士に任ぜられる。翌保元元年(1156年)に発生した保元の乱後の除目右少弁に任官。その後は保元の乱で権力を掌握した父・信西の権勢を背景として要職を歴任。保元2年(1157年正五位下に昇叙し、それまでの東宮学士に加えて、五位蔵人・左少弁・左衛門権佐検非違使佐)を兼ねて三事兼帯となり、「希代」のことと評された[1]。保元3年(1158年)この年だけで正五位下・左少弁から一挙に正四位下・権左中弁に昇進する。また、後白河天皇から二条天皇への譲位に伴い、後白河上皇の院別当と二条天皇の蔵人頭を兼ねて、朝廷の橋渡し役も務めた。平治元年(1159年)4月に参議として公卿に列し、同年11月には従三位に叙せられる。

しかし、同年12月に平治の乱が勃発。父・信西は殺害され、さらに乱後、戦乱を招いた責任によりその子息は悉く流罪に処せられる。俊憲も解官の上で越後国(後に阿波国に変更)に配流となり、これを契機に出家して法名を真寂と称し、宰相入道と呼ばれた。翌永暦元年(1160年)には平安京に召還されるが、その後は政治の表舞台に立つことなく、仁安2年(1167年)4月10日卒去享年46。

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人物

愚管抄』や『古事談』『続古事談』にその文才を物語る逸話がある。また、『玉葉』にも、かつて俊憲が「後白河院のもとでは戦乱が止まないであろう」と予言していたことが「聖人格言」として紹介されている[2]

著書として『新任弁官抄』『貫首秘抄』があり、また歌人としても『千載和歌集』(2首)と『新勅撰和歌集』(1首)にその作が入選している[3]

官歴

公卿補任』による。

系譜

  • 父:信西(藤原通憲)
  • 母:高階重仲の娘
  • 妻:三条公教の娘
    • 男子:藤原基明
  • 妻:藤原顕頼の娘
    • 男子:藤原範房
  • 生母不詳の子女
    • 男子:信憲
    • 男子:観俊

脚注

出典

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