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藤原南家

藤原氏の一流 ウィキペディアから

藤原南家
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藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代藤原不比等長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、朝廷内では房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の工藤氏伊東氏二階堂氏泉田氏相良氏など武家の名族を数多く輩出した。

概要 藤原南家, 本姓 ...
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概要

要約
視点

飛鳥時代から奈良時代にかけて律令国家の確立を主導した政治家藤原不比等の4人の男子(藤原四兄弟)は、神亀6年(729年長屋王の変により政敵長屋王を排斥し、妹光明子聖武天皇皇后に立てて政権を掌握した。四兄弟の長兄である武智麻呂は、廟堂の首班を務めて右大臣まで昇ったが、天平9年(737年天然痘の流行のために他の兄弟とともに病没してしまう。

その後廟堂の実権は皇親の橘諸兄に移ったが、その下で武智麻呂の長男藤原豊成は順調に昇進し、天平感宝元年(749年)右大臣に任ぜられる。一方、同年孝謙天皇が即位して皇太后となった光明子の下に紫微中台が設置され、甥の仲麻呂(武智麻呂の次男)が長官(紫微令)に就く。仲麻呂は、紫微中台を太政官とは別個の国政機関としてその権限を強化していき、諸兄の子橘奈良麻呂が中心となってこれを排除しようと企てたも未然に防いで多くの皇族・他氏族のほか兄豊成を含めた政敵を一掃する。淳仁朝では、息子3人(真先訓儒麻呂朝狩)を参議に任じ、自身は人臣初の太政大臣(唐風に改めて「大師」と称する)まで昇りつめたが、天平宝字8年(764年恵美押勝の乱により失脚した。

その後奈良時代末期から平安時代初期には、武智麻呂・房前の弟宇合に始まる藤原式家が台頭し、南家の勢力は低落する。桓武朝において、豊成の子継縄と武智麻呂三男乙麻呂の子是公が続いて右大臣となった。継縄と是公は式家の藤原種継に比べると目立つ実績と存在感はないが、その昇進と重用は勝るとも劣らないものであったとする再評価がある[1]。だが、続く平城朝の大同2年(807年)に当時政権二番手、三番手の座にあった大納言藤原雄友(是公の子)・中納言藤原乙叡(継縄の子)が伊予親王の変に連座して失脚し、豊成・乙麻呂の系統も衰退した。嵯峨朝に入ると、武智麻呂四男巨勢麻呂の子孫である貞嗣三守が中納言まで昇るものの、淳和朝に入るとしばらく南家出身の議政官が不在の時期が続くなど、大臣を出した北家(内麻呂園人冬嗣)や式家(緒嗣)に比べ勢力を伸ばすことができなかった。仁明朝では三守が右大臣に昇り南家から約50年ぶりの大臣となるが、わずか在任2年で没すると、以後急速に台頭した藤原北家や源氏の勢力に押され、30年以上も南家からは公卿を出せなかった。

平安中期以後は、巨勢麻呂の子孫が中下級貴族として続き、学者を多く輩出した。平安時代末期に平清盛と結んで勢威を得た院近臣藤原通憲(信西)はその代表である。また後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった範季の子孫から、堂上家である高倉家室町時代末に無嗣絶家、江戸時代に再興して藪家(藤原北家閑院流四辻支流)に改号)が出た。

なお、乙麻呂の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲の子孫は、地方に下って各地の武家となり、工藤氏伊東氏・泉田氏・二階堂氏相良氏吉川氏天野氏などを出した。

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一族

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系譜

豊成流

仲麻呂流

乙麻呂流

巨勢麻呂流

貞嗣後裔

通憲後裔
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脚注

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参考文献

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関連項目

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