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藤原道明

平安時代前期から中期の公卿。藤原南家。藤原保蔭の長男。正三位・大納言。妻に橘房上の娘 (子に藤原尹衡(-920))。子に藤原尹瞻、源国基の妻、藤原安于の妻 ウィキペディアから

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藤原 道明(ふじわら の みちあき、斉衡3年(856年[1] - 延喜20年6月17日920年7月5日))は、平安時代前期から中期にかけての公卿藤原南家相模介藤原保蔭の長男。官位正三位大納言

概要 凡例藤原 道明, 時代 ...

経歴

宇多朝寛平2年(890年文章生に補せられ、のち越前少掾や春宮・敦仁親王の春宮蔵人を務める。

寛平9年(897年)敦仁親王の即位醍醐天皇)に伴って従五位下叙爵し、翌寛平10年(898年相模介に任ぜられる。延喜3年(903年播磨介を経て、翌延喜4年(904年)従五位上・権左少弁、延喜6年(906年正五位下・左少弁次いで右中弁、延喜8年(908年従四位下・左中弁次いで右大弁と弁官を務める一方で急速に昇進し、延喜9年(909年参議に任ぜられ公卿に列した。

その後も延喜10年(910年)従四位上・左大弁、延喜11年(911年)上位者5名を越えて従三位権中納言、延喜13年(913年)中納言兼右近衛大将、延喜14年(914年大納言、延喜17年(917年正三位と引き続き昇進を重ねた。延喜18年(918年)には先任の大納言・源昇薨去により、藤原北家嫡流である右大臣藤原忠平に次いで、太政官の次席の地位にまで昇った。

醍醐朝では『延喜式』の編集に参画。延喜17年(917年)には伯父の橘澄清とともに山城国深草(現在の京都市伏見区深草直違橋)に道澄寺を創建。現在も当時の梵鐘栄山寺に現存しており国宝に指定されている。

延喜19年(919年病気を理由に右近衛大将を辞任。翌延喜20年(920年)6月17日薨去享年65。最終官位は正三位大納言兼民部卿

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「道明乎有私ト思召ニコソ有ケレ」

江談抄』には次のような逸話が記されている:

延長の末(実は延喜二十年)、貞信公が息子小野宮殿の昇進について延喜聖主に奏上した。天皇はそれを十分に認められなかった。その後叙位の日、忠平は病気を理由に参内しなかった。当時大臣は忠平ただ一人であったため、代わりに大納言藤原道明を召し出された。しかし道明もまた病気を理由に参内しなかった。中納言が叙位の執筆を務める先例がないため、その日の叙位は中止となった。

翌日の白馬節会に道明が参上すると、天皇は「去夜稱所勞不參、今日參仕如何、可弁申(夜は病気だといって参らず、今日参り仕えるのはどういうわけか。弁明しなさい。)」と厳しく問いただされた。道明は退出時に「道明有私ト思召ニコソ有ケレ(わたしの昨夜の不参を、主上は私心があってのことと思っていらっしゃるのだった。)」と嘆息し、それ以外は何も述べなかった。帰宅後病状が悪化し、以降参内することなく、ついに薨去した。

二中歴』に道明大納言の名が記載されている。受領の子息ながら学問を修め、異例の正三位大納言まで昇進し名臣と称された理由は実務能力に優れた能吏であることは当然として、さらに精励恪勤の性格が影響したと考えられる。もしこの推察が正しければ、叙位の日に天皇の召しを拒んだのは真の病によるもので、権臣忠平への遠慮ではなかっただろう。翌日節会に出席したのは、小康状態となれば職務を優先せざるを得ない生真面目な性格の表れであり、それが却って天皇に「忠平への遠慮·同調」と誤解される結果を招いた。この悲劇は「道明有私ト思召ニコソ有ケレ」という独白の悲痛さが如実に物語っている。

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官歴

公卿補任』による。

系譜

  • 父:藤原保蔭
  • 母:橘良基の娘
  • 妻:橘房上の娘
    • 男子:藤原尹衡(?-920)
  • 妻:丹治比蔭光の娘
  • 妻:藤原常作の娘[3]
    • 五男:藤原尹忠(906-989)
    • 男子:藤原尹風(?-957)
  • 生母不詳の子女

脚注

参考文献

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