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醍醐天皇
日本の第60代天皇 ウィキペディアから
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醍醐天皇(だいごてんのう、885年2月6日〈元慶9年1月18日〉- 930年10月23日〈延長8年9月29日〉[1][2])は、日本の第60代天皇(在位:897年8月4日〈寛平9年7月3日〉- 930年10月16日〈延長8年9月22日〉)。諱は維城(これざね)、のちに敦仁(あつぎみ・あつひと)。
現在に至るまで臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といった。のち父の即位とともに皇族に列し、親王宣下ののちに敦仁親王に改めた[3]。
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来歴
要約
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元慶9年(885年)1月18日、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年(887年)、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列することになった。寛平元年12月28日(890年1月22日)親王宣下、同2年12月17日(891年1月30日)に敦仁に改名。同5年(893年)4月2日立太子。この際に、父宇多天皇から剣を下賜されたことが、現在にも続く壺切御剣の始まりといわれている。同9年(897年)7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。
しかし昌泰4年(901年)、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになった。近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。時平は荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、国史『日本三代実録』の完成や、律令制の基本法である延喜格式の撰修にも着手している。

天皇はまた和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じている。自身も和歌を良くし、勅撰集に都合43首が入っているほか、家集『延喜御集』も編んでいる。33年間にわたって記した宸記『延喜御記』全20巻は早くから散逸して現存しないが、諸書に引用された逸文を次の村上天皇のそれと併せた『延喜天暦御記抄』として伝わっている。
天皇ははじめ中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王を東宮とし、その御息所に時平の長女藤原仁善子を入れていたが、延喜9年(909年)に時平が死に、延喜23年(923年)には親王も21歳で早世する[4]。そのため仁善子の子慶頼王を皇太孫としたが、2年後やはり5歳で夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、延喜23年(923年)になって天皇は道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた。
しかし延長8年6月(930年7月)に清涼殿落雷事件が起きると天皇自身は難を逃れたものの、心労が重なったこともあり、これ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病篤きによって皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位する。譲位に伴って、後院である朱雀院への遷座が決定されるが、病状の悪化に伴って27日に急遽内裏から右近衛府の大将曹司に移される。28日は急遽宇多法皇の見舞いを受けるが病状は回復せず、翌29日(譲位から7日後)に出家すると同日未刻に崩御した[5]。宝算46。翌月10日、山城国宇治郡山科陵(醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下)に土葬された。
在位中の重臣一覧
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系譜
系図
54 仁明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
55 文徳天皇 | 58 光孝天皇 | 人康親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
56 清和天皇 | 惟喬親王 | 59 宇多天皇 | 藤原基経妻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
57 陽成天皇 | 貞純親王 | 真寂法親王 (斉世親王) | 敦実親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源清蔭 〔陽成源氏〕 | 源経基 〔清和源氏〕 | 源雅信 〔宇多源氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
61 朱雀天皇 | 62 村上天皇 | 兼明親王 | 源高明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広平親王 | 63 冷泉天皇 | 致平親王 | 為平親王 | 64 円融天皇 | 昭平親王 | 具平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
65 花山天皇 | 67 三条天皇 | 66 一条天皇 | 源師房 〔村上源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦明親王 (小一条院) | 禎子内親王 (陽明門院) | 68 後一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
70 後冷泉天皇 | 71 後三条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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后妃・皇子女
要約
視点
20人に近い女御・更衣をかかえ、保明親王(文献彦太子)・代明親王・重明親王(吏部王)・源高明(臣籍降下)・兼明親王(前中書王)・寛明親王(朱雀天皇)・成明親王(村上天皇)をはじめ、36人の子女をもうけた。
安田政彦によれば、当初は皇位継承の安定化を意図して母親の出自に関係なく親王宣下を行ってきたが、多くの子女に恵まれたことで賜禄などの財政への影響も懸念されることになり、藤原忠平が政権の中枢に立った延喜14年(914年)頃に方針が変更され、同年以降に生まれた子女は源氏として臣籍降下させることになった。このため、同年に生まれた源高明以降の子女は醍醐源氏になることになったが(賀茂斎院に選ばれた韶子内親王は例外)、延喜3年以来出産をしていなかった正妃である藤原穏子が延喜19年から延喜26年にかけて再び康子・寬明(朱雀)・成明(村上)の3名の子女を出産すると正妃の実子・皇太子の兄弟ということで親王宣下の対象とされた(結果的にこの時臣籍降下から外された2皇子が皇位を継ぐことになる)。すると、同時期に他の妃が生んだ斉子・英子・章明の扱いが問題になったらしく、斉子は寬明の親王宣下の恩典を受ける形で同時に内親王とされたが、残りの2名は醍醐天皇崩御の時まで待遇が決まらず、天皇崩御の直前に急遽親王宣下が実施されることになったという[6]。
- 中宮:藤原穏子(885年 - 954年) - 関白藤原基経女
- 妃:為子内親王(? - 899年) - 光孝天皇皇女、宇多天皇同母妹
- 第一皇女:勧子内親王(899年 - ?) - 四品
- 女御:源和子(? - 947年) - 光孝天皇皇女
- 女御:藤原能子(? - 964年) - 右大臣藤原定方女
- 女御:藤原和香子(? - 935年) - 大納言藤原定国女
- 更衣:源封子 - 源旧鑑女
- 更衣:藤原鮮子(? - 915年) - 藤原連永女
- 更衣:源昇女
- 第四皇子:重明親王(906年 - 954年) - 三品式部卿
- 更衣:源周子(近江更衣)(? - 935年) - 源唱女
- 更衣:満子女王(? - 920年) - 相輔王女
- 更衣:藤原淑姫(? - 948年) - 参議藤原菅根女
- 更衣:藤原桑子(楓御息所) - 中納言藤原兼輔女
- 第十三皇子:章明親王(924年 - 990年) - 二品弾正尹
- 更衣:中将更衣 - 藤原伊衡女
- 皇子:源為明(? - 961年)
- 更衣:源敏相女
- 皇子:源允明(919年 - 942年)
- 更衣:源清子
- 更衣:藤原同子
- 更衣:源暖子
- 生母不明
- 皇女:源厳子(916年 - ?)
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諡号・追号・異名
勅願寺醍醐寺の近くに御陵があることからその名にちなんで「醍醐天皇」と追号。「醍醐院」とは言わなかったようである。これは譲位したとは言え、正式に太上天皇としての奉上を受ける前に崩御したことによって、在位の天皇と同じように土葬・山陵造営という大喪儀礼が実施された[5]ことに関連するとみられる。
また在位中の代表的な年号を取って「延喜帝」とも称された。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区醍醐古道町にある後山科陵(のちのやましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
長く醍醐寺の管理下にあったため、所在が確定できる数少ない平安時代の陵の1つである。
逸話
寒中の雪降りの夜に「諸国の民はいかに寒からむ」とて御衣を寝室より投げ出す[7]。おおかた笑みておりその由は「まめだちな人にはものを言いにくし、打ち解ければ人はものを言いよき。されば大小を聞くため」と答える[7]。民の上を偲んだ醍醐天皇は、疾病や天候の不順な時には大赦したり、税を免じたり、収穫のよくない年には民の負担を減らすために重陽の節句を何度も中止されたとある。また、旱魃の時には一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉苑の水も汲ませ、ここの水もなくなったとある。鴨川の洪水などがあれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出したり、その年貢や労役を免除されたとある。上記の天皇個人の逸話に加えて、前述の律令制の基本法である延喜格式、国史『日本三代実録』や『古今和歌集』の完成など、天皇自身がリーダーシップを取って政治・文化の振興に努めた醍醐天皇の治世は後世に理想の時代とされた。
一方で菅原道真追放については「聖代の瑕」とされ、天神信仰説話である『日蔵夢記』では崩御後、菅原道真を陥れた罪、父である宇多天皇に背いた罪などとして、地獄へ落とされ臣下共々罰をうけているとされる。
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脚注
関連作品
関連項目
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