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西島助義

日本の陸軍軍人 ウィキペディアから

西島助義
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西島 助義(にしじま すけよし、1847年10月11日弘化4年9月3日) - 1933年昭和8年)2月8日)は、日本の陸軍軍人。通称は吉太郎。陸軍中将正二位勲一等功二級男爵

概要 西島 助義 にしじま すけよし, 生誕 ...

略歴

1847年長州藩士の子弟として生まれる。戊辰戦争には分隊長として出征した。

維新後の1873年(明治6年)2月、陸軍少尉に任官。1874年(明治7年)2月、佐賀の乱では反乱軍の捕虜となる。1893年(明治26年)2月、歩兵第11連隊長として日清戦争に出征。1894年(明治27年)11月に歩兵大佐1896年(明治29年)12月に歩兵第44連隊長、1897年(明治30年)2月に陸軍教導団長、1898年(明治31年)3月には陸軍少将に昇進して歩兵第24旅団長、1900年(明治33年)1月には台湾守備混成第3旅団長をつとめた。

1902年(明治35年)2月、歩兵第7旅団長として日露戦争に出征。南山の戦い得利寺の戦い大石橋の戦い遼陽会戦に参戦する。1904年(明治37年)9月には陸軍中将に進み、西寛二郎大将に代って第2師団長として奉天会戦を戦った。

1905年(明治38年)5月に勲一等瑞宝章1906年(明治39年)4月には勲一等旭日大綬章を授けられた。同年7月、第6師団長。1907年(明治40年)9月21日、日清・日露戦役における軍功により男爵を授けられる。1909年(明治42年)9月に休職し、1911年(明治44年)9月、後備役に編入となった。1916年(大正5年)4月1日に退役した[1]

1933年昭和8年)2月、死去。享年85。

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栄典

位階
勲章等
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乃木希典についての証言

  • 後年、西南戦争後の乃木希典による自殺未遂事件について述べている。戦後、乃木は敵方に軍旗を奪われた不祥事を悔いていたが、ある時、乃木が割腹しようとする場を目撃した西島は、居合わせた児玉源太郎とともに必死に説得して自殺を止めさせた。この事件は3人だけの秘密となったが、明治天皇に殉死した乃木の死後、西島は「児玉も既に死したから、今さら秘密にすることはなかろう。」として秘話を後世に伝えている[要出典]

脚注

参考文献

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