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計呂地駅
かつて日本の北海道湧別町にあった日本国有鉄道の駅 ウィキペディアから
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計呂地駅(けろちえき)は、かつて北海道(網走支庁)紋別郡湧別町字計呂地に設置されていた、日本国有鉄道(国鉄)湧網線の駅(廃駅)である。電報略号はケロ。事務管理コードは▲122402[3]。

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歴史
- 1935年(昭和10年)10月20日:鉄道省湧網西線、中湧別駅 - 当駅間の開通に伴い、開業[1]。一般駅[1]。
- 1936年(昭和11年)10月17日:当駅 - 中佐呂間駅(後の佐呂間駅)間の延伸開通に伴い、中間駅となる。
- 1949年(昭和24年)6月1日:公共企業体である日本国有鉄道に移管。
- 1953年(昭和28年)10月22日:中湧別駅 - 網走駅間全通により路線名を湧網線に改称、それに伴い同線の駅となる。
- 1958年(昭和33年)11月30日:駅舎改築[4]。
- 1972年(昭和47年)2月8日:貨物・荷物の取り扱いを廃止[5][4]。
- 1977年(昭和52年)10月4日:副本線である4番線を撤去[4]。
- 1987年(昭和62年)3月20日:湧網線の全線廃止に伴い、廃駅となる[1]。
駅名の由来
当駅が所在していた地名より。地名は、アイヌ語の「ケイ・ラツ」(サケの皮で作った靴を忘れた所)、「ケレオチ」(非常に削られた所)など、由来には諸説ある[6]。
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駅構造
廃止時点で、1面2線の島式ホームを有する地上駅で、列車交換が可能な交換駅であった[7]。駅舎側(東側)が下り線、外側(西側)が上り線となっていた(番線表示なし)。そのほか、上り線の外側に側線(副本線)を1線有していた[7]。
国鉄末期の営業近代化において、当駅は営業成績的には無人化の対象であったが、当駅での行き違いを行う都合から職員配置駅となっており[4]、駅舎は構内の南東側に位置しホーム南側とを結ぶ構内踏切で連絡した[7]。ホームは砂利敷きであった[7]。
利用状況
乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
駅周辺
駅跡
旧駅構内は1989年(平成元年)5月から、湧別町により「湧別町計呂地交通公園」として整備された[10]。駅舎、レール、ホームが保存され、ホームに横付けする形でC58形蒸気機関車C58 139号機と[11]、それに連結して国鉄の旧型客車であるスハ45形スハ45 6、オハ62形客車オハ62 91が静態保存・展示されている[12]。車輌は1999年(平成11年)時点では野ざらしだったが[12]、2010年(平成22年)時点では車輌が保存されている部分には屋根が設けられており[13]、保存状態は良い[14]。スハ45は車内がカーペットが敷きに改装され、宿泊施設となっている[10]。
駅舎は現役当時のまま[10]で、鉄道資料室及び公園管理棟となっている。舎内に駅名標、行先標、閉塞器、通標、備品、乗車券、時刻表などの湧網線関連資料が保存・展示されている[10]。駅横には湧網線開通の経緯が記載された「鉄道記念碑」が建立されている[14]。なお、敷地内には現役当時は存在しなかった跨線橋が設置されている[10]。
以上は2010年(平成22年)時点[13]、2011年(平成23年)時点でも同様の状況であった[14]。
また、2011年(平成23年)時点では当駅跡から浜床丹仮乗降場方の、計呂地川までの線路跡には土留め用にレールや枕木が再利用されていた築堤が残存していた[14]。
- 保存車輌
- C58 139
- スハ45 17(文献にはスハ45 6と記載)
- オハ62 91
- 全景
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隣の駅
脚注
関連項目
外部リンク
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