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貞享の半知
1686年、福井藩の所領半減 ウィキペディアから
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貞享の半知(じょうきょうのはんち)または貞享の大法(じょうきょうのたいほう)は、江戸時代前期の貞享3年閏3月6日(1686年4月28日)に、越前国福井藩(現在の福井県東部)の藩主であった松平綱昌が江戸幕府の裁定によって改易されるも、即日に前藩主であった松平昌親が所領47.5万石を25万石に(実際は半減ではないが)半減された上で改めて封じられた出来事である。
藩の格式や家臣団が大きく変更されたり、後世の文献でも「御半知以後」や「御大法以後」といった表現が用いられたりするなど、福井藩に大きな影響を与えた事件であった[1][2]。
概要
要約
視点
忠昌と光通の後継

福井藩は将軍徳川秀忠の兄である結城秀康の子孫が治める、52.5万石の大藩であった。結城秀康の次男で福井藩主の松平忠昌は、正保2年(1645年)に死去した[3][4]。その跡を継ぎ福井藩主となったのは、嫡子松平光通(万千代丸)であった[3][4]。その庶兄である松平昌勝(千菊丸)には松岡藩5万石、弟の松平昌親(福松)には吉江藩2.5万石が内分知された[3][4]。
光通は延宝2年3月14日(1674年4月29日)に死去した。心労のための自殺であったとされている[5][6]。その一因が後継争いによる正妻国姫の自殺や庶子松平直堅(権蔵)の出奔であったとされる[5]。権蔵は、庶子であったため光通から認知されず、延宝元年(1673年)に江戸の松平直良邸へ逃げ込んだ[7]。
光通は生前の寛文11年4月20日(1671年5月28日)に後継者は昌勝ではなく昌親にし、家臣は昌親を中心に団決して藩政を発展させてほしいという旨の遺言書を残している[注釈 1][9][10]。昌親は兄昌勝や権蔵への配慮もあってか、藩主相続を固辞し、むしろ兄昌勝の嫡男松平綱昌(仙菊)こそ正統であると主張している[9][11]。しかし、光通の遺言状の内容を知った幕府の命令もあって昌親があとを継ぎ、このとき、昌親は綱昌を養子に取った[12][13][9][14]。「越前世譜」によれば、昌親は一刻も早く綱昌に藩主の座を譲り渡すことを期待していたという[15]。昌親はわずか2年で隠居し、新しく福井藩主となった綱昌の後見役をつとめた[12][13][16]。「越前世譜」の記録によれば、大老の酒井忠清が、昌親に綱昌を遠慮なく指導するように伝えたほか、老中から綱昌には、昌親には親孝行をし、教えをよく守るよう命じられたとされている[17]。
綱昌の乱心
当初、綱昌はそつなく藩政をこなしたとも[18]、従来の路線に反する政策をとり家臣団内の対立を引き起こしたともされている[19]。天和元年3月15日(1681年5月3日)、綱昌は江戸城から帰宅して発病し、以降は藩邸に引きこもったという[12][18]。江戸城に登城することも、福井へ帰国することもなく、家臣の挨拶をも受けることがなかったとされている[12]。貞享元年(1684年)に、領知朱印状が下された際は、昌勝が名代となっている[12][18]。また、参勤交代は昌親が代わりに行った[20]。
半知
貞享3年閏3月6日(1686年4月28日)、昌親や一門の大名が江戸城に召喚され、綱昌改易が言い渡されたとされる[12]。福井藩史である「国事叢記」には綱昌が「宜しからざる病気」のため[13]、福井藩主の列伝である「家譜」によれば「気色宜しからざる」ために[18]、改易されたという。「徳川実紀」の記述では、綱昌が「失心」したため、改易したとある[21]。それに関するうわさの一つとして、綱昌が当然藩士に切腹を命じたという話が残っている[22]。
当時から、綱昌の改易について様々なうわさが流れたとされている[18]。「土芥寇讎記」の記述では、このような異説が残っている[21][23]。昌親はうわべこそ柔和無欲であるが、ずる賢く、振る舞いは不仁不義の人であったという[12]。家督を養子の綱昌に譲ったものの、藩政が意のままにならなかったため、福井藩の奪取を企てた[12]。綱昌を「乱気」であると老中に訴え出て、所領を召し上げさせたという[12]。
また、「越国外記」では、一連の騒動について以下のように記述している。そもそもこの騒動は、兄が家督を相続すべきであるはずなのに、兄昌勝は心がよろしくない人で、光通に見限られたため、弟の昌親に家督を相続させたために起こったことだという[24]。そのために兄弟に不和が起こり、融和を図るために昌勝の嫡子である綱昌を養子に迎えた[24]。藩主となった綱昌は、わがままが続いたために、昌親と一門が共同して幕府に訴え出て、綱昌は領地を没収され昌親が25万石を継承したとされている[24]。
その後は、綱昌以前に福井藩を治めていた昌親が、徳川将軍家の親藩にあたることにも配慮されて新規に25万石で福井藩に封じられた(この際、昌明と改名する)[1][25][2][26]。昌親は藩主に就任すると、藩の体制を再び引き締めるために法令を再編し、元禄4年(1691年)には「御用諸式目」が編纂された[27]。
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影響

貞享の半知後は、福井藩の格式や家臣団が大幅に変更されている[1]。
綱昌が将軍徳川家綱から一字拝領したように、福井藩主は将軍から偏諱を賜わることが慣例であったが[注釈 2]、一時的に停止された[29]。昌親(昌明)とその養子松平昌邦が徳川綱吉から吉の字を拝領し、それぞれ吉品・吉邦と名乗ったのは、18年後の宝永元年(1704年)のことであった[1]。領地宛行状の宛名は、綱昌時代には「越前少将」であったものの、正徳2年(1712年)に吉邦へ与えられたものには「福井侍従」となっている[1]。これが再び「越前侍従」に戻ったのは、享保9年(1724年)松平宗昌の時代であった[1]。「土芥寇讎記」では、福井藩の家紋が「桐紋」とされているように、一時期は徳川家・松平家の葵紋の使用が止められ、代わって五三の桐紋が使用された[30]。
所領が半減となったことで、多くの家臣が召し放ちになったともされている[1][30]。少なからず、多くの人が福井から去ったようで、その減り具合は、屋敷だった場所が畑地に化していることからも明らかである[31]。御奉行(財政担当)やその下の組織など、定員が現状維持もしくは増加したものもあるが、番方(軍事担当)など多くは人数が削減されている[32]。

残った家臣についても、筆頭家臣である本多家が4万石から2万石に半減するなど[1]、知行取は原則として知行が半減したとされる[31]。その他の藩士も半減とまではいわずとも、減給がなされている[31]。さらに、給料からその一部を(強制的に)上納させる借米が常習化されることで家臣団の負担はさらに増した[31]。そうした貧民救助のために、吉品は領民に高い賃金を払い藩主の別邸「養浩館」の大改修を行わせたといわれている[33]。半知の影響による財政難のために、借金の返済を断ったところ、一時期は大名貸がうけられなくなった[34]。
福井藩の藩札の他国への流通も、貞享4年(1687年)に停止されることとなる[35][注釈 3]。藩札の藩外への流通が復活したのは、元禄15年(1702年)のことであった[34]。
なお、のちに福井藩は、松岡藩主の松平宗昌の相続によって松岡藩の所領を吸収し、30万石になった[37]。さらに、松平治好の時代には、さらに2万石の加増を受け、幕末まで福井藩は32万石であった[37]。
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脚注
参考文献
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