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貧乏人は麦を食え
反吉田内閣の新聞が池田勇人大蔵大臣の答弁につけ、大臣職辞任を招いた扇動的見出し ウィキペディアから
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貧乏人は麦を食え(びんぼうにんはむぎをくえ)は池田勇人の国会答弁に対し、当時吉田内閣に批判的だった新聞による見出しでの表現。「本人の発言」として後世伝えられることとなった[1]。
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実際は1950年(昭和25年)12月7日(第3次吉田内閣第1次改造内閣)に、当時大蔵大臣の池田勇人が参議院予算委員会において、当時は不足していた米に関する答弁である「私は所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則にそったほうへ持って行きたい」であるが、これをあるマスコミが誇張報道した影響で翌日に大蔵大臣を辞任させられた[2][3]。その10年後である1960年に首相に就任した池田勇人は同年11月の総選挙(安保解散)で大勝すると、「国民所得倍増計画」を閣議決定し、日本を高度成長へと邁進させた[4]。
経緯
要約
視点
参議院予算委員会の質疑
1950年12月7日、参議院予算委員会では、木村禧八郎議員(日本社会党)より高騰する米価問題への政府見解について質問され、政府側として池田勇人大蔵大臣が答弁に立った[5]。
○国務大臣(池田勇人君) 日本の経済を国際的に見まして立派なものにしたいというのが私の念願であるのであります。別に他意はございません。米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣にあったようなやり方をして行きたい。お百姓さんに小麦を食え、しかも米の100に対して95の小麦を食えと言ってもお百姓さんはなかなか食わぬ。都会の人は別であります。そういうことを考えて日本の経済を本然の姿に持って行くには、米と麦の差も大きくしなければならないというのでやっているのであります。[以下略]〇国務大臣(池田勇人君) 御承知の通りに戦争前は、米 100に対しまして麦は64%ぐらいのパーセンテージであります。それが今は米 100に対して小麦は95、大麦は85ということになっております。そうして日本の国民全体の、上から下と言っては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやっております。 [中略] 私は所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則にそったほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります。 — 参議院議事録、1950年(昭和25年)12月7日[5][注釈 1]
○木村禧八郎君 それじゃ一言だけ……、只今日本の古来の考え方に従ってやるのだという、その点はどういう意味なんですか。
木村は農林大臣の広川弘禅に米価を定めるうえで、「国際的水準に早く持つて行こうという考え」で行っているかという質問を行った。広川は「農家の生産費を基礎にして考えた」として、結果的に池田の考えと同じ価格となったと答弁した。木村はこれを受けて次のように述べた[6]。
先ほど大蔵大臣が米価を引上げて行つて麦とか精麦、小麦粉を引上げない。こういう主食の価格体系の変更については、所得に応じて食習慣を昔に復活させることが一つの理由である。所得の多い者は米を食え、所得の少い者は麦を食え、例えば農村に例をとればお百姓さんは昔のように稗です粟でも食え、米を食うのは主食の統制の結果だ。それだから食習慣を昔に戻すためにこういう食糧の価格体系を考えたのである。こういうような答弁でありましたが、農林大臣はこれについてどういうお考えでございますか。 — 木村禧八郎、 参議院議事録、1950年(昭和25年)12月7日[6]
議場からは「放言だよ、第三放言だ」「重大問題だ」と声があがり、騒然となった。広川は「池田君は少し言葉が過ぎたと私は思いますが、我々といたしましては、その土地の改良、或いは肥効等によつてどちらも得られるようにしたいと、こういう考えでおるのであります。」と答弁を行った[6]。木村は次のように述べて池田の発言には問題があると指摘した[6]。
生活内容を豊かにさせるようにしなければいけないのであつて、所得の少い者は麦を食え、所得の多い者は米を食え、これでは私は、只今も放言というお言葉もあつたが、これは單なる放言ではなく、これが今回の米価の決定、或いは小麦粉或いは精麦の価格の決定に……、主食の価格体系の決定にそういう考えがあつたとすれば、これは重大な問題だと思うのです。 — 木村禧八郎、 参議院議事録、1950年(昭和25年)12月7日[6]
池田叩きのネタをつかんだ新聞は「またやった!」と大喜びした[7]。週刊文春の「文春写真館 「あのとき、この一枚」」によれば、この答弁が吉田内閣に批判的だった新聞により「貧乏人は麦を食え」と見出しが打たれ[8]、池田が「そう発言した」ように広められた[9][10]。
後世
池田が「貧乏人は麦を食え」と発言したという認識は以降も残っており、2010年代においても以下の国会議員が発言している。
夕刊フジのWebメディアzakzakに掲載されたコラムニスト中丸謙一朗のコラムによれば、「貧乏人は麦を食え」はマスコミによる切り取られ発言の元祖と指摘している。文意を簡潔に伝達する際の正解は定めにくく、暴言への監視も大事だが、マスコミが「第4の権力」という名をほしいままにして偏向報道によって政権をもてあそぶようなことは不健全であると批判している[13]。
コラムニストの谷村鯛夢によれば、歴代の日本の政治家の暴言の中でのベストテンに入るとされている。そして、これは文字通りこう言ったわけではなく、マスコミによって暴言のように表現されていた言葉であったと解説している。池田勇人の発言当時は作付面積でも麦が一番の最盛期であり、日本が池田の所得倍増計画後に世界有数の経済大国になるにしたがって「貧乏人」も減り、麦畑も減っていった。1973年には、麦の作付面積は池田発言のあった1950年の10分の1弱になっていた。[14]
2022年の毎日新聞によると秘書官だった大平正芳は、当時に言葉選びに注意してほしいと述べつつも、「米が足りなければ、ウドンとか麦で我慢するほかない」という意味であると理解を示していたことが報道された[15]。作家の瀧澤中は2006年に、無理せず倹約すれば一時的にお金がなくても生活していける、程度の意図しかないと著書で書いている[10]。
次女の池田紀子は、1950年当時小学生だったのに登校時に「お父さん何か言ってましたか?」と新聞記者に信濃町駅の改札まで追いかけられたことを明かし、「小学生に分かりっこないのにね。」と振り替えっている。頑張って働いて今は麦飯でも将来はみんなが白米を食べられるようになろう、という趣旨のことを言いたかったのだ、と述べている[16]。そして当時の池田家も麦飯を食べていたことを明かしている[10][16]。
この「貧乏人は麦を食え」とは後の時代になってからも報道で用いられたケースがある。例えば2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ロシア、ウクライナという世界有数の穀物輸出国地域での紛争ということもあり、燃料高騰や為替相場が急激に円安に触れたことで、輸入食料品を中心に値上がりした。日本政府が小麦高騰のために輸入小麦の売り渡し価格を引き上げたことを受けて、大手製粉会社は業務用小麦粉などを値上げすることを発表する。このことなどから「貧乏人は麦を食え」ではなく、「米を食う」になると、小学館が運営するマネー情報サイト「マネーポストWEB」で報道された[17][出典無効]。
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脚注
参考文献
関連項目
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