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赤星統家
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赤星 統家(あかほし むねいえ)[8][9][10]こと赤星 道半 親隆(あかほし どうはん ちかたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
出自
赤星氏は、菊池氏当主・菊池隆泰の四男で、菊池武房の四弟・菊池有隆を祖としている。
筑後川の戦いで、赤星武貫が討死した事に由り、菊池有隆の血筋は、断絶している。
菊池武時の八男で、菊池武重の八弟で、菊池武敏や菊池武光や菊池武士の八兄の菊池武豊が、赤星氏の当主と成って赤星武生と名乗っている。
菊池武豊(赤星武生)の直系子孫が、合勢川の戦いで重臣隈部氏に敗れた赤星道雲で、其の嫡男が、赤星統家(赤星道半親隆)である。
略歴
通称は道半で、実名(じつみょう)が親隆だったが、豊後の大名の大友義統から、実名の『統』の偏諱(へんき)を賜って統家と名乗ったと思われる[11][12]。
重臣隈部氏との抗争
弘治2年(1556年)に、大友義鎮による小原鑑元討伐戦で、木野親政が討死して木野氏が断絶した。
木野氏遺領を、父・赤星道雲が相続した後で、木野氏遺領の一部を隈部親永が欲しがった事に由り、隈部氏とは敵対関係に成る。
永禄2年(1559年)5月に、隈部親永が600の軍勢を率いて木野氏遺領に侵軍して来たので、父・赤星道雲は1500の軍勢を率いて迎え撃ったが、合勢川の戦いで大敗した。
父・赤星道雲の死後に、菊池郡隈府城城主となる。
天正7年(1579年)7月末に、佐賀の龍造寺氏の援軍を得た隈部氏に、赤星の家臣の星子中務丞の山鹿郡長坂城が攻められたので、叔父・合志親賢に救援して貰ったが破られている。
天正7年(1579年)8月2日に、佐賀の龍造寺氏の援軍を得た隈部氏に、山鹿郡長坂城城主・星子中務丞を討ち取られた事に由り、山鹿郡に有った所領を失った。
佐賀の龍造寺氏への降伏と離叛
天正9年(1581年)4月13日に、龍造寺隆信に命じられた鍋島直茂が、赤星を味方に引き入れるべく甲斐外記と下村生運という者を差遣[13]した。甲斐と下村に説得された赤星は、4月21日に嫡子の新六郎を人質に出してから、菊池郡隈府城を隈部氏に明け渡して、佐賀の龍造寺氏へ臣従した[13][14][15]。赤星の嫡子の新六郎は、鰡江の無量寺へ預けられて、後に柳川に置かれたともされる[13]。
天正11年(1583年)に、龍造寺が蒲池鎮漣を謀殺した事に由り、蒲池の舅であった赤星が、恨みを抱いていると風聞が生じる[13]。龍造寺は離叛した田尻鑑種征伐の最中で柳川に滞陣して居たのであるが、成松信勝と木下昌直を使いに出して、赤星を柳川へ連れて来るように命じる[13]。しかし、龍造寺からの参陣要請に対して、赤星は2度も応じ無かった[16]。
激昂した龍造寺に、赤星の妻を連れて来いと成松と木下が命じられたので、再び赤星の元へ参じて来たが、赤星が、まだ戻って来て無かった。成松と木下が、戻って来て無かった赤星の妻へ配慮して、代わりに8歳に成る娘を連れて帰った[13]。それでも龍造寺の怒りが収まら無かったので、赤星が差し出していた人質の嫡子の新六郎14歳と、8歳の娘の兄妹が、筑後と肥後の境にある竹ノ原へと引っ立てられて処刑された[13]。龍造寺を大いに恨んだ赤星は、龍造寺に対する離叛の旗色を鮮明にして、島津氏に臣従した。
天正12年(1584年)3月24日の沖田畷の戦いでは、島津氏の軍勢の先鋒を務めた。島津家久の陣に赤装束に縄襷(なわだすき)という出で立ちで、50人の軍勢を率いて参加している。
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其の後の赤星氏
沖田畷の戦いの以後も、島津氏と行動を共にしていた事が原因で、豊臣秀吉の九州平定の後で所領を没収されて仕舞い、最後は阿波国で死去した。
なお、赤星の娘は筑後国柳川城の蒲池鎮漣の正室であり、朽網鑑房の室となった蒲池徳子の母親とされる。また、加藤清正に仕えた親武は、赤星の子とされる。
系譜
脚注
参考文献
外部リンク
関連項目
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