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退耕行勇

鎌倉時代前期の臨済宗の僧 ウィキペディアから

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退耕行勇(たいこうぎょうゆう)は、鎌倉時代前期の臨済宗である[1]。俗姓は四条氏。諱は玄信から行勇に改める。道号は退耕で、房号は荘厳房[1]。出身については山城国とも相模国酒匂とも言われている。

概要 退耕行勇, 号 ...

活動

退耕行勇は、初め密教を学び、そして鎌倉鶴岡八幡宮の供僧となり[1]、鎌倉永福寺、大慈寺(明王院に隣接した寺)の別当を務めた。また、源頼朝は寿福寺の行勇のもとを度々訪れており、源頼朝北条政子夫妻の帰依を受け、政子が出家・剃髪する際にはその戒師をつとめている。

鶴岡八幡宮の供僧であった行勇は、承安元年(1171年)、常陸入道念西伊達朝宗)の招聘[2]により荘厳寺を再興した[3]正治2年(1200年栄西が鎌倉に下向した際には、寿福寺で参禅しその門下に入る。博多聖福寺の住持になり、建永元年(1206年)栄西のあとを受けて東大寺大勧進職となる。

建保5年(1217年)には源実朝の御台所(西八条禅尼)、貞応3年(1224年)には北条義時継室伊賀の方も行勇の元で落飾した[4]

承久元年(1219年)には高野山に上って金剛三昧院を開創し、禅密兼修の道場とした[1]北条泰時の開基により鎌倉東勝寺常楽寺を、足利氏の開基により浄妙寺を開山した[1]。同寺には行勇唯一の頂相彫刻が残っている(重要文化財)。

東大寺に残る嘉禎3年(1237年)の「行勇書状」(重要文化財)には、東大寺の鎮守八幡宮の遷宮事業の進め方について、行勇が大勧進の立場から東大寺の衆徒に助言した内容で、行勇の活動の様子を伝えている。

弟子に円爾心地覚心など。

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脚注

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