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酒井忠宝 (庄内藩主)
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酒井 忠宝(さかい ただみち)は、江戸末期の大名、明治から大正期の日本の華族。位階は従三位。
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第9代出羽庄内藩主酒井忠発の六男で、兄忠篤の蟄居後に酒井佐衛門尉家第18代当主となり、会津藩主、磐城平藩主を経て、庄内藩(大泉藩と改称)の藩主・知藩事を務めた。正室は遠藤胤城の娘。
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経歴
戊辰戦争で兄・酒井忠篤が官軍に降伏し、永蟄居処分にされた後、御家再興を許されて忠宝が藩主に就任した。明治元年12月15日(1869年1月27日)に陸奥会津藩、明治2年6月15日(1869年7月23日)に陸奥磐城平藩に移封となるが、70万両[1]を献納したため同年7月22日に庄内藩へ戻る[2]。
同年に版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官。明治13年(1880年)2月、隠居し、忠篤に家督を譲る。忠篤の当主復帰ということである。大正10年(1921年)、66歳で死去[2]。忠篤の長男である酒井忠良を養子としている。
栄典
親族
脚注
参考文献
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