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野間玄琢

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野間 玄琢(のま げんたく)は、江戸時代初期の医師、儒学者。江戸幕府の医官。諱は成岑(せいしん)。

概要 凡例野間玄琢, 時代 ...

生涯

野間氏は尾張国の武士で玄琢の曾祖父の代から野間氏を称する。織田信包に仕える父が曲直瀬玄朔と友人であったため、その縁で若いころから玄朔の門下に入って医学を学ぶ。慶長15年(1610年法橋に叙されて朝廷に出仕する。元和3年(1617年)法眼に進み、寿昌院の号を賜り、元和9年(1623年)には法印に叙される。寛永3年(1626年徳川秀忠が上洛した際、二条城で秀忠と謁見して以後は将軍家に仕えるようになる。以後は江戸京都を隔年で移動するようになる。寛永5年(1628年徳川家光疱瘡に倒れた際にはその診療を行った。寛永13年(1636年徳川和子(東福門院)が病んだ際には薬を進上してこれを快癒させ、寛永15年(1638年)からは東福門院付きとなった。正保2年(1645年)京都で没。著作に「群方類稿」があり、子の三竹がさらに増補を行っている。また蔵書家としても知られ、白雲書庫を創始した。野間家は以後幕府の医官として続いた。

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出典

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