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雑賀重義

江戸時代前期の水戸藩士。徳川頼房の十一男。紀州雑賀衆の裔、鈴木姓雑賀氏を相続 ウィキペディアから

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雑賀 重義(さいか しげよし)は、江戸時代前期の水戸藩士水戸藩初代藩主徳川頼房の十一男で、徳川光圀の異母弟にあたる。紀州雑賀衆の裔である鈴木姓雑賀氏を相続した。

概要 凡例雑賀 重義, 時代 ...
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略歴

寛永11年(1634年)誕生[2]。母は興正寺門主准尊の長女・耶々(石山本願寺顕如の曾孫)。幼名は仙千代[4](千千代[3])、武蔵[3][4]。養子になった後は通称を孫三郎[3]、孫市[1][3](孫一[4])。

雑賀衆の裔である鈴木重朝徳川頼房に仕え、子の重次が跡を継いだが[5][2]、重次には男子がなく、重義が婿養子となった[2]寛文4年(1664年)、重次が死去したため家督を相続した。禄高は3千石、大番頭に准じられた。寛文7年(1667年)、大番頭となり、与力を付けられる。寛文8年(1667年)3月、徳川光圀の江戸参府に従って上京し、4代将軍・家綱に拝謁する。9月、35歳で死去した[2]。墓は養父・重次と同じく浄光寺(ひたちなか市館山[6])にある[2]

雑賀家は重義の代までは禄高3千石の家老格であったが、重義の跡を継いだ養子・重春鈴木重朝の次男・重信の孫[7][注釈 1])が幼少であったことや、家人の不行跡により、禄高は600石となった。以後も重臣層として、明治維新に至る。

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脚注

参考文献

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