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長和
日本の元号 ウィキペディアから
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改元
出典
『礼記』(冠義)の「君臣正、父子親、長幼和而后礼義立」より。
菅原宣義と大江通直が勘申した候補には、他に「太初」(中国の年号をそのまま使用。漢の武帝時代)、「政和」(出典は『礼記』)と長和の三つがあったが、和字が不快だが長和がよいのでは、と陣定で決まった(ここでは不快だと評されているが、「○和」という元号は日本では承和から令和まで19回採用されている[1])。
前回の改元の際には大江匡衡が勘申した「寛仁」と「寛弘」から、寛仁がよいのだが一条天皇の諱(懐仁)と音が重なるため寛弘が選ばれたという経緯があり、それなのに今回の勘文では寛仁の出典が見つけられずに候補に上がっていないということで道長がぼやいている(匡衡はこの年の7月に死んでいる)。陣定の場でも「寛仁は吉年号なんだがなあ」と未練がましいことを言っているが、候補に上がっていない以上は選ぶわけにはいかない(道長というとワンマンという印象を持たれている側面があるが、その彼であっても、規則に横車を押すようなことはしていないのである)。なお道長はよほど寛仁に愛着があったと見え、後一条天皇即位の後に元号として採用している[2]。道長はよほど「寛」の字を好んだらしく、娘の一人に寛子と名付けており、父の影響かは不明だが息子の頼通もやはり娘の一人に寛子と名付けている。
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長和年間の出来事
- 1013年(長和2年)
- 1016年(長和5年)
西暦との対照表
※は小の月を示す。
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脚注
関連項目
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