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寛仁
日本の元号 ウィキペディアから
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寛仁 (かんにん、旧字体:寛󠄁仁)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1021年までの期間を指す。この時代の在位した天皇は、後一条天皇(第68代)。
改元
藤原道長の執着
「寛仁」は藤原道長が執着した元号として知られる。そもそも、「寛仁」は長保6年・寛弘元年(1004年)の改元の際に、大江匡衡が勘申したが、左大弁・藤原忠輔の意見により「仁」が一条天皇の諱(懐仁)にあるため避けるべきとされていた元号だった[1][2]。
次の寛弘9年・長和元年(1012年)の改元にて、道長は「『寛仁』を勘申せよ」と二人の文章博士大江通直と菅原宣義に度々言ったものの、二人は出典が見つけられないとして、その勘申を拒んだ。しかしながら、「寛仁」は道長から相談された際、藤原実資も『漢書』から「寛仁愛人、意翻如也。」の出典を即答しており、「出典が見つけられない」は苦しい言い訳といえる[3][4]。
そしてこの寛仁元年の際にも、道長は「寛仁」に執着したが、通直と宣義は「寛仁」を勘申しなかった。2月21日、右大臣・藤原顕光から二人の勘文を見せられた道長は「不快である。変えさせるべきだ」と命じたが[5]、4月23日の改元定でも、二人が「寛仁」を勘申することはなかった[4]。一方で、藤原広業は「寛仁」を勘申し、左大臣・藤原顕光も一条天皇の諱に「仁」が有るといえども、一文字だけなら避けるべきものではないと主張し、新元号は寛仁に決まった[6][7]。なお、信義は直前の4月22日に死亡したため、彼の候補は忌むべきものとして候補から外された[8][9]。
通直らが、かたくなに「寛仁」を勘申しなかった理由について、今浜(1987)は、唐人が玄宗の諱(隆基)を避けて「永隆」を「永崇」といった故事にならったのではないかとしている[10]。
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出典
『会稽記』の「寛仁祐云々」より[11]。
候補[11]
寛仁期に起きた主な出来事
西暦との対照表
※は小の月を示す。
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脚注
参考文献
関連項目
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