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長谷川忠崇

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長谷川忠崇
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長谷川 忠崇(はせがわ ただたか)は、江戸時代中期の武士江戸幕府旗本飛騨代官家禄は400俵。[1]

概要 凡例長谷川忠崇, 時代 ...

生涯

元禄7年(1694年)、江戸幕府旗本長谷川忠国の子として誕生。

享保13年(1728年)、家督を継ぎ、父に代わって飛騨代官となる。享保14年(1729年)に美濃国上川辺にあった出張陣屋を同国下川辺[2]に移転した(下川辺出張陣屋)。また、これまでの飛騨代官は主に江戸から行政を行っていたが、元文3年(1738年)から高山在住に改めた。享保14年(1732年)の頃には、飛騨国・美濃国内で5万4500石を支配した。

元文4年(1739年)、家に伝わる古文書329通を幕府に献じて時服・黄金を賜う。在任中は飛騨地域の歴史書『飛州志』の編纂や史跡・橋梁などへの石碑の建立などを実施。飛騨国内の史跡の維持や啓発活動に力を注ぎ、同地の歴史を今日に伝える現存する資料を残した。そのほか、年貢の増免と百姓の江戸出訴への対応、年貢の金納化のための石代五カ所聞合法の採用、高山の人別米制度の実施を行なった。

延享2年(1745年)、病により職を免じられたが、宝暦2年(1752年)には細工頭へ再出仕。宝暦7年(1757年)に鉄砲箪笥奉行へ転任となる。

しかし、安永6年(1777年)には老齢により職を免じ黄金を賜うが、同年には病死した。享年84。[1] なお、忠崇のように父から子へと飛騨代官の職を継承している例は、この後に大原騒動でも知られる大原紹正大原正純の例がある。

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経歴

  • 享保13年(1728年)家督を継ぎ、飛騨代官となる。
  • 延享2年(1745年) 病免。
  • 宝暦2年(1745年) 細工頭へ再出仕。
  • 宝暦7年(1757年) 鉄砲箪笥奉行となる。
  • 安永6年(1777年) 死去。

脚注

参考文献

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