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長野藤定
戦国時代の武将 ウィキペディアから
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長野 藤定(ながの ふじさだ)は、戦国時代の武将。伊勢国の戦国大名。長野工藤氏15代当主[1]。通名は源二郎[1]。
生涯
大永6年(1526年)、長野工藤家14代・長野稙藤の子として誕生[1]。はじめ輝伯と号した[1]。兄・三郎が自害したため、長野家を継いだ[1]。
天文12年(1543年)、細野氏・分部氏を主力に北畠家の支配する南伊勢に侵攻し、迎撃してきた北畠晴具と争ったが、決着は着かなかった(垂水鷺山の戦い)。同13年(1544年)には、北畠氏・関氏とともに六角氏に加勢し、京極氏を攻めた[1]。
天文16年(1545年)から同18年(1547年)にかけて北畠晴具の攻撃を受けた[1]。永禄元年(1558年)、藤定は北畠氏に和議を申し入れた[2]。北畠具教の次男・具藤が藤定の養嗣子となり、和睦が成立した[2][3]。形式的には和睦だが、実質的には臣従である。
永禄5年(1562年)5月5日、死去[2]。享年37。法名は「梅香院殿玉巌玄沢大居士」[2]。その死は病死といわれているが、父・稙藤も同日に死去しているため、北畠家による暗殺説もある。
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脚注
参考文献
関連項目
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