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大和国

畿内に属する令制国の一つ ウィキペディアから

大和国
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大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県大国

概要 大和国, 別称 ...

国名について

当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる[1][2]。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。

その後、奈良時代天平9年12月27日ユリウス暦:738年1月21日[3]に表記は「大養徳」に改められた[1]。天平19年3月16日747年4月29日[4]には元の「大倭」に改称[1]。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる[注釈 1]平安時代以降は「大和」で一般化した[1]

国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)[注釈 2]。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された[5][6](「大和」の項も参照)。

戦国時代を経ても、飛鳥時代奈良時代以来の古い寺社が権門領主として大和国を支配していたことから、安土桃山時代には「神国」という異称もあった[7]

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沿革

近世以降の沿革

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国内の施設

概要 全ての座標を示した地図 - OSM ...

大和国内には、これまでに度々天皇の住居(宮)が構えられている(詳細は皇居#歴代の皇居を参照)。

国府

国府所在地を記した文献は次の通り。

国府は、葛上郡掖上(現在の御所市東北部と同市名柄の二説あり)の地にあったが、平城京遷都に伴って8世紀に高市郡(『和名類聚抄』)の軽の地[注釈 5]に移ったとされる。その後13世紀には平群郡(現在の大和郡山市今国府)に移った。このように国府は数か所に推定されているが、詳細は明らかでない。

国分寺・国分尼寺

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社128座85社(うち名神大社47座26社)・小社158座131社の計286座216社が記載されている(大和国の式内社一覧参照)。

総社一宮

二宮以下はない。

地域

さらに見る 古代, 中世 ...

郡名は『延喜式』による。

江戸時代の藩

  • 郡山藩郡山城):水野家〔宗家〕(6万石、1615年 - 1619年)→松平(奥平)家(12万石、1619年 - 1639年)→本多家(15万石→9万石と6万石、1639年 - 1679年)→松平(藤井)家(12万石、1679年 - 1685年)→本多家(12万石→5万石、1685年 - 1723年)→柳沢家(15万1千石、1724年 - 1871年)
  • 高取藩高取城):本多家(3万石、1600年 - 1637年)→天領→植村家(2万5000石→2万500石→2万5000石、1640年 - 1871年)
  • 柳生藩(柳生陣屋):柳生家(1万2500石→8300石→1万石、1636年 - 1871年)
  • 小泉藩小泉陣屋):片桐家(1万石→1万6千石→1万3千石→1万1千石、1600年 - 1871年)
  • 柳本藩柳本陣屋):織田家(1万石、1615年 - 1871年)
  • 戒重藩/芝村藩芝村陣屋):織田家(1万石、1615年 - 1871年)
  • 大和新庄藩:桑山家(2万石→1万6000石→1万3000石→1万1000石、1600年 - 1682年)→永井家(1万石、1682年 - 1863年)→廃藩(櫛羅藩に転封)
  • 櫛羅藩櫛羅陣屋):永井家(1万石、1863年 - 1871年)
  • 宇陀松山藩(松山陣屋):福島家(3万1717石、1600年 - 1615年)→織田家(2万8千石、1615年 - 1695年)→廃藩(丹波柏原藩へ転封)
  • 興留藩(興留陣屋):松平(藤井)家(1万石、1686年 - 1693年)→廃藩(備中庭瀬藩へ転封)
  • 竜田藩:片桐家(2万8千石→4万石→1万石、1601年 - 1654年)→廃藩(無嗣断絶)
  • 御所藩:桑山家(1万2千石→1万石→1万6千石→2万6千石、1600年 - 1629年)→廃藩(無嗣断絶)
  • 大和五条藩:松倉家(1万石、1600年 - 1616年)→廃藩(肥前島原藩に転封)
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人物

要約
視点

国司

大和守

武家官位としての大和守

江戸時代以前
江戸時代

守護

鎌倉、室町時代を通じて守護所は設置されず、興福寺がその役割を果たしていた。ただし、その守護権の行使については不明な点が多く、「興福寺別当が守護権限を行使していた」説[13]、「一乗院大乗院の両門跡が守護権限を行使していた」説[14]、「両門跡のどちらかが興福寺別当の時は別当が、それ以外の者が別当の時は別当と両門跡が共同で守護権限を行使していた」説[15]がある。

但し、室町時代後期には宇智郡河内畠山氏[16]が、宇陀郡北畠氏[17]が、それぞれの分郡守護であったとする説がある。

また、天正3年(1575年)に織田家臣の塙直政織田信長から大和守護に任じられ、直政が天王寺の戦いで戦死すると天正4年(1576年)に筒井順慶が織田信長から大和守護に任じられている。

戦国大名

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大和国の合戦

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脚注

参考文献

関連項目

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