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閥閲録
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『閥閲録』(ばつえつろく)は、萩藩主毛利吉元が家臣の永田政純に命じて、藩の諸家が所蔵している古文書や家系図を編纂させた、江戸時代の史料集。享保5年(1720年)に着手、享保10年(1725年)から翌年にかけて成立した。毛利家臣や町人なども含め789家が記載されており、全170巻、204冊。原本名は『閥閲録』であるが、後に山口県文書館が昭和42年(1967年)に再編して出版した際に『萩藩閥閲録』と名づけられたため、こちらの名で呼ばれることも多い。
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成立
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享保5年(1720年)、毛利吉元が御内用掛の永田瀬兵衛政純に調査を命じ、家中から上申させ、享保10年(1725年)頃に完成したものである。江戸時代末期の寛保・元文年間には『萩藩譜録』と称して一部が追加されて現在の形となり、昭和42年(1967年)に山口県文書館がそれを編纂して『萩藩閥閲録』として出版された。
内容
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作成当時の萩藩毛利家の家臣を中心に、町人や庄屋、僧侶・寺院など、武士以外の身分も多く含む、古文書と系譜の一大集成となっている。
第1巻から第4巻には毛利一門、家老衆、大組、手回組、足軽、陪臣、医師、絵師等の藩士の各階層、百姓、町人に至るまで、多岐にわたる内容を記した正編となっている。第4巻には、編者の永田瀬兵衛が周防国・長門国の主要な寺社の縁起や古文書を調査した結果である「防長寺社證文」も記載されている。
第5巻の「閥閲録遺漏」については成立時に収録漏れがあった文書に加え、天保年間(1831年 - 1845年)の末年に新たに家蔵文書の追加報告を命じて文久年間(1861年 - 1864年)までの約20年間に、227家分の文書を収集追加し編集した物となっている[1]。
意義
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萩藩主毛利家以外でも、同様な家臣の系譜等を収集して編纂した書物は多数あるが、その多くは家臣団の把握を主目的としており、百姓や商人や医師等の系譜まで記載してあるものは非常に珍しい。また、萩藩は江戸期には防長両国のみを所領としていたが、元々は安芸国を中心として中国地方全体から九州北部の一部を支配下に置いた大大名であり、萩藩の家臣団は戦国期の中国地方全体の国人領主がそのまま幕藩体制に組み込まれたものである。そのため、『閥閲録』の記録は、そのまま中国地方全体の歴史の記録であり、毛利氏をはじめ大内氏、尼子氏等の歴史や、織田信長や豊臣秀吉政権との外交関係を知る上で不可欠の一級の一次史料である。
また、南北朝時代からの記録も多く含まれているため、鎌倉幕府成立後に地頭や守護として関東から移封されてきた御家人の系譜や、関東の本家では記録に残されていない史実も収録されている。甲斐武田家臣の山県昌景も安芸国壬生城主一族で、後に飯富虎昌に嫁いだ姉を頼って甲斐国に赴いたという記載もあり、通説では兄弟とされていた飯富虎昌と昌景の関係も、年齢差や閥閲録の記録から、伯父と甥の関係であったと推定する学説もある。
目録
一門
永代家老
寄組
国司隼人・志道太郎右衛門組(御手廻組)
益田越中組(物頭組)
梨羽頼母組(大組、一)
根来主馬組(大組、二)
榎本織衛組(大組、三)
児玉四郎兵衛組(大組、四)
口羽六兵衛組(大組、五)
桂勘右衛門組(大組、六)
柳沢靭負組(大組、七)
宍戸四郎五郎組(大組、八)
村上図書組(三田尻御船手組)
村上一学組(三田尻御船手組)
遠近附
医師(寺社組)
絵師(寺社組)
役者(寺社組)
無給通
膳夫
供歩行
地方歩行
三十人役(三十人通)
御利徳雇
御手大工
細工人
足軽
小人・中間・厩之者
町人
宰判
閥閲録遺漏
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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