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阿倍広庭

日本の奈良時代の貴族 ウィキペディアから

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阿倍 広庭(あべ の ひろにわ)は、奈良時代前期の公卿右大臣阿倍御主人の子[1]官位従三位中納言

概要 凡例阿倍 広庭, 時代 ...

経歴

文武朝慶雲元年(704年)前年に没した父・御主人功封100戸の内の1/4を継ぐことが許される(当時の位階従五位上[2]和銅2年(709年)以前に正五位下、和銅4年(711年正五位上、和銅6年(713年従四位下に叙せられるなど、元明朝にて順調に昇進を果たす。

霊亀元年(715年宮内卿養老2年(718年従四位上、養老5年(721年)には正四位下左大弁に叙任されるなど、元正朝でも要職を務めながら引き続き順調に昇進する。養老6年(722年参議に任ぜられて公卿に列し知河内和泉事も兼ねた。養老7年(723年正四位上

神亀元年(724年聖武天皇即位の前後に従三位に叙せられ[注釈 1]、神亀4年(727年中納言に任ぜられる。長屋王政権下では極端に議政官の異動が少ない中、広庭は非常に順調に昇進を果たしており、長屋王との関係が良好であったと見られる[4]。神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、議政官が長屋王糾問に参画する中で広庭と藤原房前の二人のみがこれに加わらず、変後の論功行賞にも与からなかった。

天平4年(732年)2月22日薨去享年74[5]。最終官位は中納言従三位兼催造宮長官知河内和泉等国事。

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人物

懐風藻』に五言詩「春日宴に侍す」「秋日長王(長屋王)が宅にて新羅の客を宴す」2首を残している。また、『万葉集』に和歌4首[6]、『拾遺和歌集』に和歌1首が採録されている。

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

脚注

出典

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