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隠岐古典相撲大会
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隠岐古典相撲大会(おきこてんずもうたいかい)は、島根県の隠岐郡で行われる相撲大会のこと。一般的な相撲大会と違い、島内で祝い事があったときにのみ開催され、島を挙げて夜通し取り組みが行われるのが特徴である。
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歴史
島根県の隠岐地方は古くから相撲が盛んな地域であった。遅くとも江戸時代の初期には島内にある水若酢神社の社殿改築時に相撲興業が催されたという。勧進相撲として盛んに相撲が行われていた。明治時代から昭和初期にかけて島内で祝い事があった際には島を挙げての相撲大会が開催をされていた。
しかし、高度経済成長期に入ると島内の若者たちが島外に流出するようになり、島内の活気が失われるようになった。島内の相撲大会も昭和30年台後半に開催された大会を最後に行われなくなっていた。
これを憂えた地元出身の実業家、横地治男の提唱により地元相撲愛好家と相撲経験者が集まり、1971年(昭和46年)11月23日に「大巾[1]会(おおはばかい)」を設立した。同会の目的は「伝統ある隠岐の相撲を語り合い、会員の親睦と相撲の発展と、島民の士気高揚を図る」ことである。
1972年11月3日、水若酢神社二の鳥居復興奉祝として第1回隠岐古典相撲大会が開催された。以後、島内で祝い事があるたびに開催されており[2]、島内最大のイベントとして定着している。
また隠岐の島町出身の元大相撲力士・隠岐の海は、2023年9月30日に両国国技館で開催された引退相撲を隠岐古典相撲の形式で行った[3][4][5]。
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大会の流れ
要約
視点
以下は第14回大会のものである。
- 役力士の決定後、開催1ヶ月前に正式な番付が発表され、そのころから出場力士たちは稽古を始める。さらに地域の女性が中心となって稽古後に振る舞う食事や酒の用意なども行われ、これが地域のつながりの強化に一役買っている。
- 1日目の午前11時30分に役力士の家で出陣式を行い、その後力士たちは氏神に参拝する。
- 参拝後、同日の午後4時30分に力士たちは行列を組んで古典相撲の会場に向かう。
- 午後5時30分、隠岐古典相撲大会の始まり。各地域の力士7人から8人が土俵に上がり、一人ひとり紹介を受ける。
- 午後9時半。取り組みは、15歳前後の少年が務める「草結」によるものから始まる。その後、朝までほぼ途切れることなく取組が行われるが、途中休憩で相撲甚句の披露なども行われる。
- 翌午前9時、役力士による取組「役相撲」の始まり。予定が延びて正午ごろの開始になることもある。
大会の歴史
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特徴
- 座元と寄方
隠岐古典相撲大会は、20年に1度行われる水若酢神社の遷宮時に加え、島内の学校の開校、公共事業の完成など祝い事があった際に行われる。祝い事があった地域を「座元」と呼び、他の地域を「寄方」と呼ぶ[2]。この2つを大相撲で言う東西に分けて扱う。
- 役力士
大関・関脇・小結に加え、草結と呼ばれる役が座元・寄方それぞれにあり、最高位は大関[2]。横綱は存在しない。これらの役にゆいた力士を「役力士」と呼ぶ。他の男性たちは「割相撲」と呼ばれる、300番にも及ぶ取り組みに出場する。役力士の選考基準は相撲の強さに加え、地域への貢献度や人格などが該当する。さらに運の要素も絡むといい、隠岐の島町観光課の前田隼人によると、いくらそれらの条件を満たしていてもその時点で大会が開催されていなければ役力士を務めるチャンスがない。
- 激励の塩
土俵に上がる力士だけでなく、溜まりにいる応援者も力士めがけて塩を投げる[2]。
- 人情相撲
取組は2番行われ、最初に勝った力士は次の1番は相手に勝ちを譲って、1勝1敗になるようにするのが決まり。島内で人間関係にしこりを残さないようにするために配慮である。このことから、隠岐古典相撲は「人情相撲」とも呼ばれる[2]。
- 柱相撲
役力士が商品として授与されるのは、長さ約5mの太い柱[2]。ここから隠岐古典相撲は「柱相撲」とも呼ばれる。
脚注
参考文献
外部リンク
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