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露館播遷
李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったこと ウィキペディアから
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露館播遷(ろかんはせん[1]、ろかんばんせん[2]、朝鮮語: 아관파천、1896年2月11日 - 1897年2月20日)または高宗ロシア公館亡命(ロシア語: Бегство Коджона в русскую миссию)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に逃亡した事件を言う。
在朝鮮ロシア総領事のカール・イバノビッチ・ヴェーバーが個人的に貞洞[注釈 1]のロシア公使館の建物を避難所として高宗に提供した。韓国でも古くは日本語での表記と同じように「露館播遷」と呼ばれたが、最近では
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関連年表
1895年(明治28年)
1896年(明治29年)
- 1月31日
- 儒生李弼熙の檄文[注釈 3]。乙未義兵[注釈 4]。
- 2月5日
- 李範晋はロシアの指示で春川、忠清道で暴動を起こし、日本の電信線を切断[10]。
- 2月10日
- ロシア 107名の水兵 20名の食料担当兵 大砲一門を漢城に搬入。ロシア兵150名となる。
- 宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届ける。
- 2月11日
- 高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へに逃げ込む。
- 高宗勅令[11]で。
- 2月18日
- 仁川で4000余名の暴徒が蜂起し官衙官宅を毀壊[18]。
- 2月21日
- 各地に起こる暴動のうち 、内部参書官徐相潗と申大均は騷優地方坡州、開城、驪州、利川等に乱民鎮撫に関する勅諭頒示の為に向かう。
- 2月22日
- 内閣体制の更新。
- 李範晋は法部大臣兼警務使となり大院君派の粛清を開始[19]。
- 3月16日
- 大院君一派の人々、漢城府観察使金経夏、呂圭亨等従犯等数十名を逮捕、裁判へ。
- 3月27日
- アメリカ、雲山の金鉱採掘権[20]、京仁線敷設権[21]、漢城の電灯・電話・電車の敷設権取得。
- 4月22日
- ロシア、慶源・鍾城両処の鉱山採掘権を取得。
- 5月14日
- 日本・ロシア間で朝鮮問題に関し、第1次日露議定書調印[22]。
- 5月22日
- 流刑10年に処せられた閔泳駿(後に閔泳徽と改名)、赦免となる[23]。
- 6月9日
- 日本・ロシア間で朝鮮問題に関し、第2次日露議定書調印[24]。
- 6月12日
- ロシア、月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨361元)租借契約を取得。
- 6月22日
- 李範晋、在米国公使へ。
- 7月
- フランス、京義線敷設権を取得。
- 8月20日
- 機械厰でのロシア技士雇傭契約(機械士官Remnevに每年銀貨200元)。
- 9月
- ロシア、豆満江上流地域・鴨緑江上流地域・鬱陵島・茂山の森林伐採権を取得。
- 11月21日
- 旧臣ら、高宗に還宮請願計画(未遂)。
1897年(明治30年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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