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金弘集 (政治家)
李氏朝鮮の政治家 ウィキペディアから
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金 弘集(きん こうしゅう、キム・ホンジプ、朝鮮語: 김홍집、1842年8月11日 - 1896年2月11日)は、李氏朝鮮末期の政治家。内閣総理大臣。穏健派として朝鮮の近代的改革を目指したが、親清国派から親日派への姿勢を強めていく中で日本の傀儡とみなされるようになっていった。甲午改革により朝鮮の改革を図ったが、ロシア・アメリカの支持を受けた国王ら反日派による逆クーデターを受け、民衆らに襲われ殺害された。
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生涯
要約
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道光22年(1842年)、慶尚道慶州に生まれた。初名は金宏集。
同治6年(1867年)に文科に及第して進士となった。光緒6年(1880年)には朝鮮修信使として訪日している[1]。光緒8年(1882年)8月、壬午軍乱後の済物浦条約では朝鮮側の副官として済物浦停泊中の日本軍艦金剛をおとずれ、花房義質と交渉した[2][注釈 1]。また、この年の10月、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結したが、清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が署名したのに対し、朝鮮側は趙寧夏と金弘集(当時は金宏集)、魚允中がこれに署名した[2]。こののちは金允植や魚允中らとともに清国主導の近代化を支持し、閔氏政権との連携を強めた[3]。
その後、日清戦争のさなかの開国503年(1894年)7月より甲午改革と称される内政改革に着手した。その内容は、科挙廃止を含む政治機構の改革、財政・税制面での改革など多岐にわたるものであった。日清戦争における日本の優勢をみて親清国派から親日派の姿勢を強めていったが、彼自身は穏健な開化派とみられた。日清戦争が日本に有利に進む中、日本に亡命していた朴泳孝が戻ると連立政権を組み、開国504年(1895年)1月7日、金弘集内閣は近代的な政治改革の基本綱領洪範14条を発表[4]、さらなる改革を進めることとなる。ただし、朴泳孝とて単なる日本のイエスマンではなかったが、これらの改革は、朝鮮から日清戦争の費用を出させるための税制・財政改革であったりと、基本的に日本の都合や利権獲得に沿う形で進められたものであったことに注意する必要がある。
閔妃は急進的開化派の朴泳孝に接近、穏健派の金弘集と関係に分断が生まれ、1895年5月に金弘集の辞任により内閣は崩壊する。朴定陽(開化派)の過渡的な内閣となり、朴泳孝が実質的な力を持ったが、日本が三国干渉に応じたのをみて閔妃は今度は親ロシア派等に接近、親日派は勢力を失っていった。朴泳孝らは改革の継続を図っていたが、1895年7月に朴泳孝は反乱陰謀を企てたとされて失脚し日本に再び亡命する[5]。背景には、朴泳孝が、宮中警備をアメリカ士官の訓練を受けた侍衛隊から日本士官の訓練を受けた訓練隊に代えようとしたことが高宗・閔妃の不信をかったともいわれる。その後は閔妃が列強のバランスを取る形で、親米派・親露派に加え穏健な親日開化派の金弘集と再び連携して第三次甲午改革を試みた。
しかし、同年10月8日に三浦悟郎公使の策謀により乙未事変が起こり、諸外国のバランスの中で朝鮮や王家の自主・独立を保とうとしていた王妃の閔妃が日本軍・日本人壮士や朝鮮人の部隊である訓練隊の襲撃を受け殺害された[6]。金弘集は、日本軍が漢城に駐留している中、日本との対立を避けてこの事件の収拾を図ろうとした。さらに、3月25日から着手された乙未改革[7]により11月15日に断髪令を出したことは[8]、儒教を説く保守派両班らから「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」との道徳に反するとして反発を招いた。これらの改革は反日感情を高め、金弘集は民衆からの支持を失っていった。
1895年末頃から民衆が蜂起、「中華を尊んで夷狄を攘う」「国母復讐」などを掲げた義兵闘争(初期義兵闘争)が始まっていたが、建陽元年(1896年)1月頃になると各地に広がり始めた。同年2月、国王高宗はロシア公使館に逃げ込んだ(露館播遷)。高宗はロシア公使館で新内閣を任命、金弘集らの逮捕を命じた。金弘集は、高宗に会おうとロシア公使館に向かおうとした(一説には、警務庁に護送される途中で[9])が、怒って集まって来た民衆に取り囲まれることになる。既に光化門あたりで逃げるよう勧める日本軍守備兵に金弘集は「朝鮮人のために殺されるのも天命である」として避難することを潔しとせず、金弘集は民衆によって撲殺された。遺体は市中を引き回され、ボロ布のように扱われたという[5]。
金弘集の死後は金炳始を首班に親米派を中心に親露派を加えた政権が立てられたが、1年以上にわたって高宗がロシア公使館内で執務を続ける中で、親露派の勢力が強くなっていった。日本は電信線防衛を理由に軍を駐留させることで勢力基盤を残したが、それまで扶植してきた朝鮮における勢力及び威信の後退とロシア進出の危機感を募らせ、日露戦争の遠因となった。
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脚注
参考文献
関連項目
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