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青柴憲一

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青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日大正元年〉 - 1945年11月1日昭和20年〉)は、京都府出身のプロ野球選手投手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

1930年旧関西六大学野球連盟に加盟した立命館大学野球部に所属。1932年から1933年ごろはその快速球で京都の野球界を風靡しており、京都商業学校時代の沢村栄治から目標とされる程の存在だった[1]。また、島秀之助も戦前で最も印象に残った選手の一人として、青柴憲一の名を挙げている[2]。大学時代のチームメイトに後藤正村川幸信(社会人野球の明電舎でもバッテリーを組んだ)がいる。

立命館大学を中退して、渡辺商店や東洋ベアリングでプレー。1934年ベーブ・ルース率いる全米選抜チーム来日時には、11月8日の湯の川球場(北海道函館市)での試合に全日本選抜チームの投手として先発。初回にアール・アベリルに満塁ホームランを打たれ、2-5で敗れた。同年12月26日に大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツの前身)が創設されると同時に入団を請われ入団。沢村栄治ヴィクトル・スタルヒンの影に隠れてあまり活躍の機会はなかったが、1937年秋季に2勝1敗ながら防御率2.67を記録してリーグ9位に入っている。

1938年秋に戦局の悪化にともない陸軍に召集され戦地へ[3]。その後、除隊して明電舎や大連実業団でもプレーしたが、職業野球に復帰することなく、1945年に平壌第一陸軍病院で病死した[4]喘息の持病があったと言われている。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

1947年秋に国民リーグへの参加を目的に元中部日本監督・竹内愛一が京都府出身者を中心に「京都団」というチームの結成を試みた。結局、チーム実現には至らなかったが、当時マスコミに発表されていたレギュラーメンバー予定者9名の中に、戦死したことが判明していなかった青柴の名も含まれていた[5]

野球殿堂博物館には、青柴が1936年に着用したユニフォームが収蔵されている[6]

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選手としての特徴

大学時代は快速球で鳴らしたが、巨人入団後はスリークォーターから、右打者の外角へスーッと逃げるボールでいい味を出していた[7]

人物

当時中野のアパートに住んでいたが、アパートから10分ほどの所にある丸井(現在の丸井中野本店)で月賦背広を買い、その足で質屋に行って背広を質草に現金を借りる方法を編み出し、金回りが良かった。当時の巨人では給料の前借りはできなかったため、他の選手も現金が必要な時は同じ方法を利用していたという。また、青柴は当時としてはおしゃれのセンスが抜群で、借りた現金で、オメガの時計、ステットソン英語版の帽子、ヒコックのベルトなどの舶来品を買って身につけていた[7]

大学卒業後に呉服商のチームにいただけあって非常に器用であった。ある時、丸井で買ってきた背広について、表の柄より裏の柄が気に入ったとして、背広を自分の手でほどき、三日三晩かけて表と裏をひっくり返して、完全に背広を作り替えてしまった[7]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 9 (1935年)
  • 13 (1936年 - 1938年)
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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