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飯森辰次郎
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飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(安政3年10月15日[1])- 1918年(大正7年)10月12日[2][3])は、明治から大正前期の教育者、政治家。衆議院議員。
経歴
豊前国企救郡小倉城下[4](福岡県[2]企救郡小倉町、小倉市[3]を経て現北九州市小倉北区)で、小倉藩士、槍指南役・飯森辰蔵の第二子として生まれる[4]。藩校・育徳館(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)で学び、13歳で長崎遊学に選抜され、重野成斎(重野安繹)に師事した[4]。
1880年(明治13年)鹿児島中学校(中学造士館の前身)の教員となり[4]、その後、各地の旧制中学校、商業学校で教員を務め[2][3][4][5]、1890年(明治23年)実業界に転じた[4]。
1900年(明治33年)から17年間、小倉市会議員に在任し、この間、学務、水道、防疫、築港などの委員を務めた[4]。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙で福岡県小倉市から無所属で出馬して当選し[4][5][6]、公友倶楽部、公正会に所属して衆議院議員に1期在任した[2][3][5]。
国政選挙歴
- 第10回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、1908年5月、立憲政友会)次点落選[6]
- 第11回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、1912年5月、立憲政友会)次点落選[6]
- 第12回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、1915年3月、無所属)当選[6]
- 第13回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、1917年4月、無所属)落選[7]
脚注
参考文献
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