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高倉永相

戦国時代の公卿。正二位・権大納言。高倉家8代 ウィキペディアから

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高倉 永相(たかくら ながすけ)は、戦国時代公卿。初名は永綱(ながつな)。権大納言高倉永家の三男[1]官位正二位・権大納言。

概要 凡例高倉永相, 時代 ...

生涯

天文7年(1538年従五位下に叙爵し、翌天文8年(1539年元服して、昇殿を許されて侍従に任官する。天文9年(1540年右衛門佐に遷ると、天文17年(1548年)の従四位下叙位後も引き続きこれを務め、天文22年(1553年)正月に右衛門督に昇任された。

同年8月に将軍・足利義藤に付き従い、から近江に向かったが、三好長慶が「将軍に随伴する者は武家・公家に関わらず、知行を没収する」と通達したため、永相は義藤を見捨てて帰京した[2]

永禄3年(1560年)、従三位に叙せられて公卿に列し、翌永禄4年(1561年参議に任ぜられた。

永禄11年(1568年)、武命に違えて摂津国大坂に下向するが、永禄13年(1570年)に京に戻って再び朝廷に出仕する[1]

元亀4年(1573年)7月、将軍・足利義昭織田信長に反旗を翻して挙兵するために宇治・槇島城へ遷ると、義昭の命令を受けて、永相は日野輝資らとともに二条御所を守るが、まもなく信長の軍に包囲され降伏した[3][4]

天正4年(1577年)、従二位権中納言に叙任されるが、天正7年(1580年)権中納言を辞任し、天正8年(1581年正二位に叙せられる。

天正13年(1586年)12月、重病に伏している中で権大納言に任ぜられるが[5]、それから間もない12月23日に薨去享年55。法名は常清。

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官歴

公卿補任』による。

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系譜

系図纂要』による。

脚注

参考文献

関連項目

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