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高田せい子
大正・昭和期の舞踊家 ウィキペディアから
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高田 せい子(たかた せいこ、1895年(明治28年)9月13日 - 1977年(昭和52年)3月19日[1])は、日本の舞踊家である。旧芸名は原 せい子(はら-)、本名は中村 せい(なかむら-、旧姓澤野[2])[1]。夫の舞踊家・高田雅夫と行動をともにし、「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍し、夫の早世後も、創作舞踊を発表しつづけた[1]。
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人物・来歴
要約
視点
1895年(明治28年)9月13日、石川県金沢市に生まれる[1]。旧姓名は澤野 せい(さわの-)[2][3]。
高等女学校卒業後、上京[2]。1912年(明治45年)4月、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)予科に入学し[3]、本科器楽部ピアノ専攻に進学した[4]。同学を中退後[注釈 1]、麹町区内幸町の帝国劇場で歌劇部のオペラ指導者のローシーに学んだ[1]。同部は1916年(大正5年)に解散になり、ローシーが10月に赤坂・ローヤル館を開業し、オペラ興行を行った。原せい子は、高田雅夫らとともにこれに参加した。芸名の原姓は、原信子にちなむ。
1918年(大正7年)、23歳を迎える年に、同い年の高田雅夫と結婚[1]、以降、高田せい子を芸名とした。ローヤル館は、1919年(大正8年)2月には解散となる。ローシーは渡米、同年5月、松竹が浅草公園六区の浅草オペラに参入し、「新星歌舞劇団」を結成した。高田夫妻はこれに参加する。1920年(大正9年)8月、根岸興行部三代目の根岸吉之助が、「新星歌舞劇団」から、高田夫妻、清水金太郎・清水静子夫妻、田谷力三、堀田金星らローヤル館出身者を引き抜き、「根岸大歌劇団」を結成した。同年10月11日に根岸が経営する「金龍館」で旗揚げ公演を行った。金龍館と同歌劇団を中心に、浅草オペラは花ひらいた。
その絶頂期である1922年(大正11年)、夫とともにヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国へと発ち、その各地で舞踊を研究した[7]。1923年(大正12年)9月1日、日本は関東大震災に見舞われ、首都は壊滅、浅草六区も崩壊し、浅草オペラは終焉に向かったが、高田夫妻は翌1924年(大正13年)に帰国、同年、高田舞踊研究所を開いた[1][7]。
1929年(昭和4年)5月24日、満33歳で夫の高田雅夫が死去した[7]。夫の没後も創作舞踊を発表しつづけた[1]。1932年(昭和7年)から1941年(昭和16年)まで、二階堂トクヨの日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)で西洋舞踊を指導した[8]。
1939年(昭和14年)10月、朝鮮藝術賞の舞踊部門の審査員に石井漠とともに名を連ねる。またこのころ、石井の弟子の舞踊家・崔承喜と人気を競った。
1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦は終結、戦後は高田門下の山田五郎とともに高田・山田舞踊団を主宰した[1]。1950年(昭和25年)、現代美術自選代表作十五人展が開かれた際、児島善三郎が描いた旧作洋画『スペイン装の高田せい子女史』(制作年不詳)が出品された。
1959年(昭和34年)、全日本芸術舞踊協会(現在の現代舞踊協会)を結成、会長に就任した。同年、紫綬褒章を受章、1970年(昭和45年)には勲四等宝冠章を受章した。江口隆哉、平岡斗南夫、小沢恂子、安藤哲子、三輝容子ら多くの舞踊家を育てた。
1976年(昭和51年)、現代舞踊協会の会長を退き名誉会長となった1年後、1977年(昭和52年)3月19日、死去した[1]。満81歳没。墓所は多磨霊園(5-1-14-51)
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脚注
参考文献
関連項目
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