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高須賀穣
日本の政治家 ウィキペディアから
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高須賀 穣(たかすが ゆずる、1865年3月9日(慶応元年2月13日[1]) - 1940年(昭和15年)2月16日[2])は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。
経歴
伊予国温泉郡藤原村(のち愛媛県温泉郡雄群村、現・松山市)生まれ[1]。慶應義塾に入り、のち同大学部理財科を専攻する[1]。アメリカへ渡り、デポー大学とウエストミニスター大学に留学する。大学を卒業し、米国文学士を受ける[1][2]。その後、欧州とアジア各地を巡り、帰国する[1]。
1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛媛1区から自由党公認で立候補して初当選する[3]。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選[4]。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
1905年にオーストラリアのビクトリア州に移住。そこで稲作を始め、後にブドウやトマトの栽培にも乗り出した。引退後の1939年に帰国し、翌年の1940年に死去した[5]。
脚注
参考文献
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