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鴇田正憲

日本のサッカー選手 ウィキペディアから

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鴇田 正憲(ときた まさのり、1925年6月24日 - 2004年3月5日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手、経営者。1940年代から1950年代の日本を代表する右ウイング

概要 鴇田 正憲, 名前 ...
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略歴

神戸市立西灘小学校、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高校)を経て、1944年に関西学院大学経済学部に入学[1]。在学中はサッカー部に所属し、関西学生サッカーリーグなどで優勝した。

1950年3月に大学を卒業後、1950年4月に田辺製薬(現:田辺三菱製薬)に入社[1]サッカー部では、賀川太郎とのコンビで活躍し、全日本実業団サッカー選手権大会で6連覇を含む7回の優勝に貢献。また、杉本茂雄らと共に「関学クラブ/全関学」(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として全日本選手権大会 (現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)で4回の優勝の優勝に貢献した。

また、1951年2月11日の全関西戦で日本代表として初出場[2]1956年メルボルンオリンピックでは主将を務めた。

引退後は社業に専念。1977年5月に札幌支店長に就任し、1983年7月より取締役兼大阪支店長を務めた[1]。1986年より関連会社の良互薬品社長を務め、1993年に退職した。

2004年3月5日、食道癌で死去し神戸市中央区で葬儀が行われた[3]

没後の2006年日本サッカー殿堂に選出された[4]

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人物

俊足で、巧みなドリブルと正確なセンタリングで活躍した。関西学院大学時代にドリブルしながら200メートルのトラックを進む鴇田に誰も追いつけなかったという逸話が残っている。

所属クラブ

獲得タイトル

経歴

  • 日本代表初出場(国際Aマッチ):1951年3月7日 対イラン代表戦(ニューデリー)
  • 日本代表初得点(国際Aマッチ):1951年3月8日 対イラン代表戦(ニューデリー)
  • 日本代表初出場:1951年2月11日 対全関西(日本)戦(大阪スタヂアム
  • 日本代表初得点:1951年2月18日 対全関学(日本)戦(西宮球場

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 12試合 2得点(1951-1959)
さらに見る 日本代表, 国際Aマッチ ...

出場

さらに見る No., 開催日 ...

得点数

さらに見る #, 年月日 ...
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脚注

関連項目

外部リンク

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