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鷲羽丸
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鷲羽丸(わしゅうまる)は、日本国有鉄道(国鉄)鉄道連絡船の宇高連絡船の船舶である。
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船歴
太平洋戦争後、宇高連絡船は輸送量が増加し、従来の船舶では需要の増大に対応できなくなったことから、大型船の導入が計画され、1946年(昭和21年)から3隻の大型船の建造が進められた。
「鷲羽丸」は播磨造船所で建造され[1]、1947年(昭和22年)3月11日に起工[3]。1948年(昭和23年)2月28日に進水し[3]、同年5月29日に竣工[3]。竣工と同時にGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-W013の管理番号が付与された[2]。 同年6月25日に就航[4]。紫雲丸型では3番目の就航であった。
1950年(昭和25年)3月13日、昭和天皇の四国巡幸(昭和天皇の戦後巡幸)に際し「鷲羽丸」がお召し船となり、四国へ向かう天皇を乗せた[6][7]。
この直後の同年3月25日0時53分、直島と荒神島間の直島水道にて、「鷲羽丸」(下り貨物1021便)と「紫雲丸」(上り貨物1020便)が衝突。「鷲羽丸」の船首が「紫雲丸」の船尾車両甲板下の3等客室前部右舷に突き刺る。「紫雲丸」は横倒しになり、1時4分に沈没。死者7名。
1952年(昭和27年)9月23日、高松鉄道桟橋沖で「福浦丸」と接触[8]。翌1953年(昭和28年)1月18日、高松港赤灯台台下に乗り上げた[8]。
1954年(昭和29年)4月29日、「鷲羽丸」は「第一チュンシン丸」[9]と衝突した[10]。「鷲羽丸」は、その日の2時20分に高松港を出港して宇野港へ向かっていた[11]。西航する「第一チュンシン丸」を認め500メートルまで接近したところで船長は右転を命じた[12]。一方の「第一チュンシン丸」船長は当初、北航する「鷲羽丸」の前方を横切れると思っていたが、その後無理と判断して左転を命令[12]。両者は接近し、双方で機関停止などが命じられるも衝突した[12]。「鷲羽丸」に被害はなかったが、「第一チュンシン丸」は浸水して水船となり、高松港へ曳航された[12]。
1956年(昭和31年)8月13日、高松港口白灯台台下で漁船と接触[13]。
1967年(昭和42年)10月24日、休航[5]。1968年(昭和43年)1月20日、高松港西防波堤に係船[5]。同年7月15日に甘糟産業汽船に2230万円で売却された[5]。同年7月17日、解体[2]。
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脚注
参考文献
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