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黒川真武

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黒川 真武(くろかわまたけ、明治32年(1899年3月23日 - 昭和57年(1982年2月5日)は、日本化学者工業技術院長学位工学博士東京帝国大学)。

概要 人物情報, 生誕 ...

経歴

大正12年(1923年)東京帝国大学工学部応用化学科卒業後、農商務省燃料研究所へ入所する。昭和9年(1934年)燃料研究のため欧米を視察、帰国後『燃料協会誌』に「獨逸に於ける代用燃料の現況及将来」を寄稿する[1]。昭和21年(1946年)に『石炭の水素添加に関する研究』で東京帝国大学より工学博士の学位を授与される[2][3][4]

昭和23年(1948年)、終戦後、食料や燃料が不足する状況下で、乏しい生活に耐えられながらも、生活の向上を考え、日本の再建を図るためには、基礎知識として「科学の一般化」が必要と考える。実際の観察、実験を元に科学的観察や考え方を学び、生活と科学の結びつきの重要性を啓蒙することを目的に、子供向けの『火の研究室』を刊行した[5]

昭和24年(1949年)燃料研究所長に就任する。昭和25年(1950年)には、進藤武左ヱ門加茂正雄始関伊平と共に第4回世界動力会議に日本代表団として出席している[6]。自立経済達成の前提条件は、工業技術水準の向上であり、生産性の向上も貿易の振興も技術の完全な裏付けが必要との視点から、化学物理電気の総合技術が必要となる防錆技術に着目した[7]

昭和27年(1952年通商産業省工業技術院資源技術試験所長に就任する。昭和30年(1955年)工業技術院長に就任する。化学、とりわけ燃料工学に関する本邦屈指の権威として知られ、数多くの論文を執筆、試験研究に関する技術行政においても大きな足跡を残した[8]。 昭和35年(1960年)に工業技術院長退任後は、日本学術会議会員、高圧ガス保安協会会長、日本工業標準調査会副会長、学士会理事、総合安全工学研究所初代理事長、産業公害対策委員会顧問、北海道炭礦汽船顧問などを歴任した。

黒川調査団

昭和38年(1963年)、通商産業省(通産省)が日本初の環境アセスメントを実施するために、学会の権威を集めて編成した調査団(通称「黒川調査団」)の団長に就任する[9]ばい煙の排出の規制等に関する法律(ばい煙規制法)の指定地域に三重県四日市市が適用されるための基礎資料を得ることを目的に、厚生省および通商産業省(通産省)から調査を委嘱された。また、反対運動が高まっていた東駿河湾地区石油コンビナートによる公害の心配を払拭するために調査を行ったが、住民による反対運動が強く、計画は中止された[10]。これらの調査を元に公害対策、石油化学コンビナートと公害の特殊性について指摘、国及び地方公共団体、企業側の産業公害防除対策の方向を提言した[11]。黒川団長の指導力は卓越し、電力系の委員(東大教授)の発言が討議の紛糾を招く中、語気を強くし、その後の大気汚染対策に影響を与える提言をまとめあげた[12]

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人物

  • 「日本文化の集成者」と言われた黒川真頼(東京帝国大学教授)の孫にあたる。
  • 東京府立三中の同級生に石井桂岸田日出刀、喜多武四郎(彫刻家)、浅沼稲次郎がいた。誠に几帳面な性格で、遊ぶことより勉強に熱心な生徒だった[13]
  • 話術に秀てており、講演では硬い話、柔らかい話を適当に混ぜて、時には笑わせ、長い時間少しも退屈にさせなかったという[14]

著書

  • 『火の研究室』まえがき、少年文化社、1948年
  • 『応用燃料化学』、実業教科書、1950.年
  • 『熱精算』、丸善、1953年
  • 『燃焼工学』、技報堂、1948年
  • 『燃料発熱量測定法』、実業教科書、1949年(佐々木正治共著)
  • 『應用燃料化学』実業教科書、1950年
  • 『石炭・石炭化学』、日刊工業新聞社,1963年

家族・親族

栄典

外部リンク

脚注

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