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1986年の世界ラリー選手権
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1986年の世界ラリー選手権(1986 World Rally Championship season)は、FIA世界ラリー選手権の第14回大会となる。前年の12戦にオリンパス・ラリーが追加され、全13戦でタイトルが争われた。これは北米大陸のWRCへの復帰を意味した。また、12月に実施されたオリンパス・ラリーはアメリカ合衆国で開催された唯一のグループB車両によるイベントとなった。
1986年の世界ラリー選手権 | |||
優勝ドライバー![]() 優勝マニュファクチャラー ![]() | |||
前年: | 1985 | 翌年: | 1987 |
1986年はWRCからグループBが排除されるきっかけとなった悲劇的な事故の発生で記憶されるシーズンとなった。第3戦のポルトガル・ラリーにおいて観客3名が死亡、30名以上が負傷するという事故が発生した。第5戦のツール・ド・コルスではランチア・デルタS4を駆るヘンリ・トイヴォネンがクラッシュ、炎上する事故を起こし、コ・ドライバーのセルジオ・クレストと共に死亡した。ドライバーズ・タイトルはプジョーのユハ・カンクネンが獲得、ランチアのマルク・アレン、カンクネンのチームメイト、ティモ・サロネンがこれに続いた。マニファクチャラーズ・タイトルはランチアとの戦いを僅差で制したプジョーが獲得した[1]。
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シーズン概要
要約
視点

開幕戦ラリー・モンテカルロはランチア・デルタ S4を駆るヘンリ・トイヴォネンが制した。第2戦のスウェーディッシュ・ラリーでトイヴォネンはエンジントラブルでリタイヤ、プジョー・205 ターボ 16 E2を駆るユハ・カンクネンがトイヴォネンのチームメイト、マルク・アレンを抑えて制した。第3戦のポルトガル・ラリーではヨアキム・サントスがコース内に乱入した観客を回避したことでコースオフし、観客席の観客3名が死亡、30名以上が負傷するという事故が発生した[2]。事故後、全ワークスチームはポルトガル・ラリーをボイコットし[3]、地元の無名ドライバー、ヨアヒム・モウティンホが優勝した。
もう一つの悲劇はツール・ド・コルスで発生した。トイヴォネンの駆るランチアはコースから外れて横転し屋根から着地した。運転席の下に位置していたアルミ製の燃料タンクは木によって引き裂かれ、ガソリンに引火して爆発した。トイヴォネンとコ・ドライバーのクレストは脱出する間もなく、シートに座ったまま焼死した。この事故は目撃者がいなかった[4]。

この事故によってジャン=マリー・バレストルと国際自動車スポーツ連盟(FISA)は直ちにグループBの開発を凍結、1987年シーズンからの排除を決定した。アウディとフォードは競技からの撤退を決定したが、一方他チームはシーズン終了までグループBカーの使用を継続した。プジョーのジャン・トッドは排除の決定に対して激怒し、連盟に対する法的対抗を示した[5]。ツール・ド・コルスは結局プジョーのブルーノ・サビーが優勝し、彼にとってWRCでの初優勝となった。サードドライバーが初優勝を果たしたのは、ラリー・アルゼンチンでのミキ・ビアシオンもそうであった。
第11戦のラリー・サンレモではプジョーが違法なサイドスカートを装着していたと言うことで、オーガナイザーが失格の裁定を下し論争が生じることとなった。国際自動車連盟(FIA)はプジョーの車両を合法であると証明し、イタリアのオーガナイザーはプジョーがランチアに勝つのを妨げたとして非難を受けることとなった。結局FIAはラリー・サンレモの結果を無効にすることを決定した。プジョーはマニファクチャラーズ・タイトルを獲得したが、カンクネンがランチアのアレンを上回ってタイトルを確定したかどうかはシーズン終了の3週間後まで分からなかった[6]。
1986年はFIAがグループAカーのドライバーに対して世界選手権を掛けた唯一のシーズンであった。フォルクスワーゲン・ゴルフGTI 16Vをドライブしたスウェーデン人ドライバーのケネス・エリクソンが、グループBクワトロの低出力版アウディ・クワトロをドライブしたルディ・ストールに打ち勝ってこのタイトルを獲得した。この選手権はグループBが排除されることとなり廃止された。1987年以降、グループA車両がWRCの主流となっていった。
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参加チームとドライバー
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参照
外部リンク
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