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20人展

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20人展
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20人展(にじゅうにんてん、フランス語: Les XX(レ・ヴァン))とは、1883年ベルギーの画家、デザイナー、彫刻家たち20人を会員として発足したグループである。ブリュッセルの法律家、出版業者であり起業家であるオクターヴ・モース英語版が主導して結成された。

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1889年の20人展のポスター

10年間にわたり、毎年展覧会を開催し、そこには国内外からの20人の画家たちも招待された。招待された画家には、カミーユ・ピサロ(1887年、89年、91年)、クロード・モネ(1886年、89年)、ジョルジュ・スーラ(1887年、89年、91年、1892年)、ポール・ゴーギャン(1889年、91年)、ポール・セザンヌ(1890年)、フィンセント・ファン・ゴッホ(1890年、91年)などがいる。

その前身といえるのがエソール展英語版であったが、ジェームズ・アンソールの「牡蠣を食べる人」(1883年)がアントウェルペン・サロンで却下された後にエソール展でも却下されたことが、20人展結成に至るきっかけの一つであった。

1893年、20人展は自由美学展に改組された。

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沿革

20人展のグループは、1883年10月28日、ブリュッセルで、官立サロンやエソール展(「上昇」展)の保守的な運営方針に不満を持つ画家たちによって設立された。エソール展もまたサロンに反対の立場から設立されたが、20人の画家から成る理事会の運営方針は硬直的であった。

20人展では、理事会は11人の画家によって構成されたが、法律家、ジャーナリスト、美術評論家でもあるオクターヴ・モースが事務局長を務め、硬直的な規則から自由な立場で行動することが可能であった。1884年から1893年にかけて、毎年、通常1月から3月までの時期に展覧会を開催した。その展覧会の運営は、ローテーションで構成される3人の委員会が担当した。20人の構成員に加え、国内外から20人の画家も招待され、作品を展示することとされた。展覧会の開催中は、文学の講座や討論会が行われたり、1888年からはヴァンサン・ダンディ作曲による音楽の演奏会が開かれたりもした[1]

1881年には、オクターヴ・モース、エドモン・ピカール、エミール・ヴェルハーレンが主導して評論集『現代美術』を発刊するなど、20人展においては美術、音楽、文学の間の強い結びつきが意識されていた。

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会員

11人の創立メンバー

9人の被招待メンバー

設立後招待された12人のメンバー

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年次展覧会

要約
視点

1884年、85年、86年の展覧会は、ブリュッセル美術センター英語版で、その後の展覧会は全てブリュッセルのベルギー王立美術館で開催された[9]

1884年

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クロード・モネ「La Manneporte à Étretat」

最初の展覧会は、1884年2月2日に開催された[4]

20人展会員のほかに、アドリアーン・ジョセフ・ヘイマンス、ヤン・ストバーツオーギュスト・ロダンジェームズ・マクニール・ホイッスラーマックス・リーバーマンらが出展した[10]

カチュール・マンデスリヒャルト・ワーグナーについての評論を行った[11]

1885年

グザヴィエ・メルリ[4]およびヤン・トーロップ[8]が出展した。

1886年

ピエール=オーギュスト・ルノワール[2]オディロン・ルドン[12]が出展。またクロード・モネLe pont d'ArgenteuilLa Manneporte à Étretatなどを出展[11]

セザール・フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」を初演[13]

1887年

ウォルター・シッカート[14]、ピサロ、ベルト・モリゾジョルジュ・スーラが出展し、冒頭、スーラとシニャックがプレゼンテーションを行った[2]。この展覧会での目玉はスーラのグランド・ジャット島の日曜日の午後であった[3]

同年7月、20人展グループはオランダのアムステルダムで展覧会を実施した[9]

1888年

アルベール・デュボワ=ピエ[15]アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックアンリ=エドモン・クロスジェームズ・マクニール・ホイッスラー[1]、シニャック、ルドン[2]が出展した。

ヴァンサン・ダンディの「山の詩」(Poème des Montagnes)が初演された[13]

作家オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンも招かれた[11]

1889年

ピサロ[3]マクシミリアン・リュス[3]、アンリ=エドモン・クロス、ギュスターヴ・カイユボット[1]、セザンヌ[15]、アルベール・デュボワ=ピエ[15]、ゴーギャン、スーラが出展した[2]。その一つがゴーギャンの「説教の後の光景」であった[8]

1つ目のコンサートでは、セザール・フランク、Pierre de Bréville、エルネスト・ショーソンガブリエル・フォーレ、Julien Tiersotが作曲した音楽が演奏された。Quatuor Ysaÿeがその演奏の一部を担当し、それはその後数年間続いた[16]。2つ目のコンサートはフォーレが中心となり、このほかダンディ、Charles Bordes、アンリ・デュパルクの曲も取り上げられた[16]

7月には、アムステルダムで展覧会を実施した[9]

1890年

ルドン[12]、セザンヌ[1]、シニャック、トゥールーズ=ロートレック[5]アルフレッド・シスレー、ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ[11]が出展した。

コンサートは3回開かれ、第1回はAuguste Dupont、Léon Soubre、Joseph Jaco、Paul Gilson、Gustave Hubertiといったベルギーの作曲家たちが取り上げられた[16]。第2回と第3回はフランスの作曲家たちで、第2回ではフォーレ、フランク、ダンディ、Castillonの曲が演奏された。第3回ではダンディが自作のフランスの山人の歌による交響曲(別名セヴェンヌ交響曲Symphonie Cévenole)を演奏した[17]。このほか、フォーレ、フランク、Bréville、Bordes、エルネスト・ショーソンアルベリク・マニャールポール・ヴィダルの作品も演奏された[16]

ステファヌ・マラルメオーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンについての講義を行い、エドモン・ピカールがモーリス・メーテルリンクエミール・ヴェルハーレン、Charles van Lerbergheを論じた[11]

1891年

スーラ[2]、ピサロ[3]、シスレー[11]ジュール・シェレ[15]が出展した。

装飾美術の最初の展示が行われ、ウォルター・クレインによるポスターやイラストレーション、アルフレッド・ウィリアム・フィンチの陶芸の試み[18]、ゴーギャンによるゴッホを追憶しての3つの花瓶と像が展示された。カタログの表紙はジョルジュ・レメンが手がけた[19]

フランクの追悼コンサートと、ダンディの新作を発表するコンサートが開催され[1]、後者にはフランクに従うBordes、デュパルク、Bréville、ショーソン、Tiersot、Vidal、Camille Benoîtの作品も演奏された。フォーレとエマニュエル・シャブリエによる作品も演奏された[16]。3つ目のコンサートは、ピョートル・チャイコフスキーアレクサンドル・ボロディンニコライ・シチェルバチョフニコライ・リムスキー=コルサコフアレクサンドル・コプィロフなどロシアの作曲家を取り上げるものであった[16]

1892年

Auguste Delahercheの陶芸、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの刺繍作品が展示された[20]。画家ではマクシミリアン・リュス[3]レオ・ゴーソン[15]メアリー・カサット[11]が出展した。

スーラのLa CirqueLa Paradeを含む18点の作品を展示した回顧特集も行われた[20]

3夜のコンサートが行われ、第1夜はPaul GilsonのLa Merギヨーム・ルクーAndromèdeのほか、リムスキー=コルサコフ、アレクサンドル・グラズノフ、Franz Servaisの作品が上演された[21]。第2夜は、アレクシス・ド・カスティヨン、フランク、Bordes、Louis de Serres、エマニュエル・シャブリエの作品であった[16]。最終夜は、ダンディのSuite in D初演、ショーソンのConcertヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲か)[13]、フォーレ、Bordes、カミーユ・シュヴィヤールアルベリク・マニャールなどであった[16]

1893年

アルフレッド・ウィリアム・フィンチ作のテーブル、ヴェルデの刺繍、アレクサンドル・シャルパンティエのオブジェなど、多くのデザイン作品が出品された[20]

ポール・ヴェルレーヌが現代詩についての講演を行った[11]

第1回のコンサートではフランクの作品の上演とショーソンの愛と海の詩Poème de l'amour et la mer)の初演が行われた。第2夜ではダンディ、カスティヨン、フォーレ、シャブリエ、Brévilleの作品が取り上げられた[16]。最終夜はルクーの「ヴァイオリン協奏曲」プレミア[13]のほか、Charles Smulders、Paul Gilson、Dorson van Reysschoot、カスティヨンの作品が演奏された[21]

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脚注

外部リンク

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