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WWWA世界シングル王座
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WWWA世界シングル王座(スリーダブリュー・エーせかいシングルおうざ)は、全日本女子プロレスが管理、WWWAが認定していた王座。「WWWA」は「World Women's Wrestling Association(世界女子レスリング協会)」の略。
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歴史
要約
視点
1937年1月28日、ミルドレッド・バークがクララ・モーテンソンを破って世界女子王座を獲得。
1950年、世界女子王座を管理する機関としてロサンゼルスにWWWAを発足してバークが会長に就任。また、世界女子王座を引き継ぐ形でWWWA世界シングル王座を創設してバークは自身を初代王者に認定。
ベルト部分の色から「赤いベルト」と呼ばれている。
1954年にバークが初来日を果たした際、防衛戦が行われて来日興行に関わった松永高司がチャンピオンベルトを「世界最高峰」と紹介していた。
バークは1956年の引退までWWWA世界シングル王座を保持していた。
1968年、松永が設立した全日本女子プロレスはバークからWWWA世界王座の管理権を買い取る話を進める。
1970年8月16日、ロサンゼルスで行われた第2代王座決定トーナメントに優勝したマリー・バグノンがバークからチャンピオンベルトを授与されて第2代王者になった。10月15日、京愛子が獲得したことで日本に定着して全日本女子の管理下に置かれた。
全日本女子最強の象徴と称されて、その長い歴史の中で数々の名勝負が行われていた。京は22回連続防衛に成功しており、現在でも日本の女子プロレス史上最多連続防衛記録である。
管理権譲渡を受けた全日本女子はNWAに加盟しており、NWAの規約上加盟団体は独自の王座には「世界」と冠することができなかったが、NWA世界女子王座はNWAの直轄ではないことから(NWA世界女子王者であるファビュラス・ムーラの個人管理)、WWWA世界シングル王座を「世界」と冠することができた。
1997年8月20日、全日本女子の経営危機による所属選手の大量離脱の際、棚ボタ式で堀田祐美子が王者になったことで全日本女子OG達から猛烈な反発があったことからも、女子プロレス界において非常に重要な意味を持つ王座であったことがうかがえる。
1970年10月26日、王者の京が初代チャンピオンベルトをバークに返却された。同年、全日本女子によって2代目チャンピオンベルトが製作された。
1985年8月22日、全日本女子によって3代目チャンピオンベルトが制作された。また、王者のジャガー横田が防衛に成功した際、その功績から横田に2代目チャンピオンベルトが贈呈された[1]。
2005年4月17日、全日本女子の解散により、WWWA世界王座も封印されたがWWWA世界シングル王座だけは最後の王者である前川久美子の希望で管理権が譲渡された。
2006年3月26日、後楽園ホールで開催された「前川久美子引退興行」で、前川を破って王者になった高橋奈苗がチャンピオンベルトを松永に返還して封印された[2]。チャンピオンベルトは松永と親しかった人物に買い取られて保管されている[3][4]。
2012年1月8日、TOKYO DOME CITY HALLで開催された「ブル中野引退興行」で引退セレモニーが行われて中野からアジャコングにチャンピオンベルトが渡された際、アジャが中野の腰にチャンピオンベルトを巻いたことで一時的に復活を遂げた。6月3日、THE GRAND HALLで開催された「ジャガー横田35周年記念大会」で歴代WWWA世界シングル王者による6人タッグマッチが行われて、横田が所有していた2代目チャンピオンベルトが懸けられたが結局は防衛に成功している[5]。
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歴代王者
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主な記録
参考文献
- ベースボールマガジン社『週刊プロレス特別増刊』1998年12月17日 pp27 - 29「紅き女王の証」
脚注
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