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七里恒順

明治時代の浄土真宗の僧侶 ウィキペディアから

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七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日天保6年7月11日) - 1900年明治33年)1月29日[1])は幕末・明治時代の浄土真宗の僧侶である。号は松花子。

概要 七里恒順, 法名 ...

生涯

要約
視点

生いたち、修学期

1835年(天保6年)、現在の越後国三島郡(現新潟県長岡市)飯塚にある浄土真宗本願寺派明鏡寺第13代住職井上宗鏡の次男として生まれる[2][3]。このころは「天保の大飢饉」によって全国で多くの餓死者が出て、百姓一揆打ちこわし大塩平八郎の乱とその影響による生田万の乱能勢騒動が起こり、世の中は騒然としていた。

11歳で得度、月珠・南渓らに学ぶ

1845年(弘化2年)11歳で得度、14歳で僧朗勧学の門に入り、15歳から宣界司教せんかいしきょうの德水社に入り修学。20歳から九州に移り、豊前月珠勧学げっしゅかんがくについて宗学を研鑽。23歳から宣正せんしょう、25歳から田丸慶忍、28歳から南渓に師事し[4]、14歳から30歳までの16年間、刻苦勉励の修学時代を過ごした。

萬行寺住職となる

1864年(元治元年)11月、筑前国博多にある萬行寺に赴き、翌年の1865年(慶応元年)10月27日に第19代住職に就いた[3]

萬行寺では、1867年(慶応3年)に私塾「甘露窟」(のちに「龍華教校」)を再興し学徒を教育する。在籍した学生は500人を超え[5]、「中外日報」を創刊した真溪涙骨のような人物も輩出した[6]

1876年(明治9年)には百日講を作り、師匠の勧学・田丸慶忍を招いて近隣の僧侶の教育にも取り組んだ[7]。以後、要籍会をつくり道俗の教化に当たり、また、恵以真会、開明会を起こして庶民から知識人に至るまで広く教化に当たった。

1880年(明治13年)から3年あまり、本願寺執行しゅぎょう(現在の総務)に就任。

そして1881年(明治14年)には、6歳から15歳までの男子・女子を集めて「教童講きょうどうこう」を開いて子供の仏教教育に当たり、「坊守講」を設けて各寺の坊守の教化にも当たった[7]。1882年、「龍華教校」を開設して道俗の教化に尽力。

廃仏毀釈に立ち向かう

当時は、明治維新で成立した新政府による神仏分離令による廃仏毀釈の流れが僧侶をはじめ門信徒を動揺させた。その中で七里恒順は危機感を覚え、猛然と立ち上がり、念仏繁盛に邁進し、「お念仏しなされや」と、報恩の念仏行に勤しむしむことを強く勧めていった。

仏教批判の福沢諭吉と対論し仏教の正当性を述べ、諭吉が七里の博学、人格に敬意を払ったと恒順の著書「梅林閑談[8][9]」にその記録が見られる。

博多で布教に専念

本山である西本願寺で執行しぎょうを務めたほかは、萬行寺での布教に専念した。本願寺派の学僧の最高位である勧学の授与が打診されたが、これは本人が固辞し、没後に贈られた。

七里和上の信仰は円熟し、「仏を拝むなら本願寺さまへ参れ、法を聞くなら萬行寺さまへ参れ」と言われるほどで、門前には聞法のための宿が軒を連ねたという。

1893年(明治26年)病気で倒れる。

1900年(明治33年)1月29日死去、66歳。

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著作

雑誌

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脚注・参考文献

関連項目

外部リンク

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