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出水市針原地区土石流災害
鹿児島県出水市境町の針原地区で発生した土石流災害 ウィキペディアから
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出水市針原地区土石流災害(いずみしはりはらちくどせきりゅうさいがい)は、1997年(平成9年)7月10日の未明に、鹿児島県出水市境町の針原地区で、7月7日午前0時頃から降り続いた大雨の影響で発生した土石流による災害[1][2][3]。
地理
元々針原という地名は、針=角の取れていない岩の原、といった意味合いのある地名である。これは以前からこの付近において土石流が頻繁に発生していたことを示唆する。また針原地区を流れる針原川は土石流危険渓流に指定されており、その上部では砂防堰堤が建設中であった[2]。同年の3月26日には紫尾山付近を震源とする震度5強の地震(鹿児島県北西部地震)が発生したが、この地震による土石流災害への影響や因果関係は不明である[2]。
発生まで
当時の出水市は既に6月の降水量が例年の倍近くであったが、7月7日からは集中豪雨に見舞われており、土石流発生直前までの7日からの総雨量は約400mmにも達していた[2][3]。9日には市内のあちこちで冠水や浸水の被害が発生し、午後4時から5時までの時間雨量は55mmを観測したが午後7時を過ぎてから一旦降雨が止んだ[2]。当時の針原地区では自主避難が呼びかけられていたが、降雨が止んだことにより住民が安心し、避難を行わなかったことが被害を大きくした可能性がある[2]。
発生
9日午後11時を過ぎてから山鳴りがした、針原川の水量が減ったなどの前兆現象ではないかとも言える現象が生き残った住民により証言されている[4][5]。10日未明に土石流が発生[1][2]。山の斜面が高さ約200メートル、幅約100メートルにわたって崩壊し、土砂が建設中であった砂防ダムを乗り越え、針原地区を飲み込んだ[1][2]。
発生後
出水市消防本部・出水市消防署が直ちに出動、続いて鹿児島県警察が現地に到着[2]。鹿児島県は災害対策本部を設置し、自衛隊に災害救援出動を要請した[2]。午前6時には自衛隊が到着し捜索及び救助活動にあたった[2]。
- 午前10時、須賀龍郎鹿児島県知事が現地入り[6]。
- 午後4時、亀井静香建設大臣が現地入り[7]。
- 午後6時30分、二次災害による危険のため捜索を一旦打ち切り[8]。打ち切りにあたって、記者会見で災害対策本部が打ち切りに至った経緯を説明している途中、捜索続行を主張する行方不明者親族をマスコミ関係者と誤解した亀井が「専門家の判断でこれ以上の捜索は危険と判断した。いいかげんなことを言うな」と声を荒らげた[8]。しかし、親族が身分を明らかにしたため、自身の勘違いに気付いた亀井は「振る舞いに無礼な点があったことを詫びる。捜索には全力を尽くします」と謝罪した[8]。
- 11日午前7時、捜索を再開[9]。
- 同午後1時40分、21人目の行方不明者の遺体を発見[9]。これにより捜索終了[9]。
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被害
- 死者21名、重軽傷者13名、破壊された家屋は19棟[1]。
復旧支援
本災害によりミカン畑が土砂で埋まる被害が出たため、ミカン畑に流入した土砂の撤去などの復旧作業が行われた[10]。復旧にあたって、県内外からボランティアが被災地に駆けつけ、土砂に埋まったミカン箱の回収や援助物資の整理を行った[11][12]。その後、土砂が撤去されたミカン畑から順次収穫・出荷が行われた[13]。
今後の防災に向けた取り組み
本災害をきっかけに、鹿児島県は土砂災害発生予測情報システムの運用の整備を開始[14]。雨量計を県内各地に設置するなどの対応で暫定運用を進めた[14]。
2001年(平成13年)3月27日、鹿児島県土砂災害・避難基準等検討委員会は土砂災害発生予測情報システムの運用方法などについて、運用内容や基準を妥当と判断し、承認した[14]。運用方法としては、鹿児島県内を29ブロックに分けた上で土砂災害に対して以下の危険指標を設定し、災害発生の危険性を予測するとともに市町村の防災活動の支援に繋げるシステムとなっている[14]。
慰霊・追悼
1997年(平成9年)8月10日、被災地で針原公民館主催の慰霊祭が開催され、公民館長が犠牲者の氏名を読み上げた上で「予想を超えた大災害だった。今回の悲しみは子孫末代まで引き継いでいく。安らかに眠って下さい」と述べて犠牲者の冥福を祈った[15]。その後、被災地に慰霊碑とともに針原川災害復興記念公園が設置され、毎年7月10日に慰霊祭が開催されている[16][17][18][19][20][21][1]。
脚注
外部リンク
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