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山口弘達
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山口 弘達(やまぐち ひろよし)は、常陸牛久藩の第12代(最後)の藩主。のちに子爵。
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来歴
万延元年(1860年)3月23日、第11代藩主山口弘敞の長男として生まれる。文久2年(1862年)8月6日、父が死去したため、わずか3歳で家督を継いだ。慶応4年(1868年)2月20日、幼少のために重臣を上洛させて、恭順の姿勢を示した。戊辰戦争で藩は新政府に与し、龍ヶ崎や水海道へ出兵する。同年10月5日、上洛する。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事(家禄370石)となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官、11月まで牛久県知事を務めた。
明治5年(1872年)、旧藩の債務のうち2779両を私債として引き受ける。明治17年(1884年)、子爵。以後、学習院の教授を務める。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれ[1]、大正14年(1925年)7月10月まで5期務めた[1]。昭和7年(1932年)7月18日に死去した。享年73。
栄典
家族
父母
妻
子女
- 山口弘徳(長男)
- 米倉昌達(三男)
- 山口重鑑(四男)
- 山口重虎(五男)
- 山口重秋(六男)
脚注
参考文献
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