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スペインのサッカー選手 ウィキペディアから
ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア(Jon Andoni Goikoetxea Lasá, 1965年10月21日 - )は、スペイン・パンプローナ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。スペイン代表であった。ポジションはMF、FW。主に右サイドのポジションを幅広くこなし[1]、ウイング、サイドハーフ、ウイングバックでプレー、右サイドの最高峰の選手と言われた[2]。希にDF(サイドバック)を務めることもあった[1]。
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名前 | ||||||
本名 |
ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア・ラサ Jon Andoni Goikoetxea Lasá | |||||
ラテン文字 | Jon Andoni GOIKOETXEA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1965年10月21日(58歳) | |||||
出身地 | スペイン、パンプローナ | |||||
身長 | 174cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF / FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1988 | オサスナ | 95 | (19) | |||
1988-1994 | バルセロナ | 126 | (6) | |||
1988-1990 | → レアル・ソシエダ | 74 | (10) | |||
1994-1997 | アスレティック・ビルバオ | 92 | (1) | |||
1998 | 横浜マリノス | 23 | (0) | |||
1998-1999 | オサスナ | 17 | (0) | |||
通算 | 427 | (36) | ||||
代表歴 | ||||||
1985 | スペインU-19 | 1 | (0) | |||
1985 | スペインU-20 | 5 | (1) | |||
1985-1988 | スペインU-21 | 12 | (2) | |||
1987 | スペインU-23 | 1 | (0) | |||
1990-1996 | スペイン | 36 | (4) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ラ・リーガでは13シーズンで386試合に出場して36得点を挙げている。スペイン代表として1994 FIFAワールドカップに出場した。
CAオサスナの下部組織出身で、20歳を迎える直前の1985年10月19日、セルタ・デ・ビーゴ戦(0-2)でトップチームデビューした。早くからレギュラーの座を射止め、11月23日のエスパニョール戦でプロ入り初ゴール[3]、1987-88シーズンには11得点を記録してリーグ戦の5位躍進に貢献した。
1988年夏にFCバルセロナに移籍したが、すぐさまレアル・ソシエダにレンタル移籍し、2シーズンを過ごした[1][2]。1988-89シーズンと1989-90シーズンのリーグ戦では合わせて2試合しか欠場せず、1989-90シーズンには5位に躍進した。1990年夏にはFCバルセロナにレンタルバックし[1] 、チキ・ベギリスタイン、フリオ・サリナス、ホセ・マリ・バケーロなど同じバスク人選手とともにエル・ドリーム・チームの背骨を構成、在籍中はスタメンや途中交代などでほとんどの試合に出場した[2]。1990-91シーズンはリーグ戦37試合に出場し、ドン・バロン紙が選出するリーグ最優秀スペイン人選手賞を受賞した。1991-92シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは初優勝を達成したが、決勝のUCサンプドリア戦(1-0)でゴイコエチェアは後半途中から出場している[4]。リーグ戦では4連覇を果たした。1993年のUEFAスーパーカップ、ブレーメン戦の2ndレグでは決勝ゴールを決めて優勝に重要な役割を果たした[5]。
1994年夏、アスレティック・ビルバオに移籍し、3シーズンで100試合近くに出場した。
1998年1月には日本・Jリーグの横浜マリノスに移籍し、FCバルセロナ時代のチームメイトであるサリナスと再びコンビを組み23試合に出場した[6]。自身を獲得した同郷のハビエル・アスカルゴルタ監督が退任し、アントニオ・デラ・クルスが監督代行を務めるようになると徐々に出番を減らした。2ndステージ、9月5日、第5節の横浜フリューゲルスとの横浜ダービーではクロスで中村俊輔の決勝点をアシストしたが、9月19日のセレッソ大阪戦で退場処分になって[7] 以降は次第に出場時間を減らし、ベンチ要員となった[8][9][10][11][12]。監督交代の影響もあり、わずか1年でスペインに戻り、セグンダ・ディビシオン(2部)に降格していた古巣のCAオサスナでプレーした後に現役引退した[2]。
1990年9月12日、ブラジルとの親善試合(3-0)でスペイン代表デビューした。1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会予選では最終節を前に、アイルランドが勝ち点17、デンマークが勝ち点16、スペインが13であったが[13]、予選最終節のデンマーク戦で、フェルナンド・イエロの決勝ゴールをアシスト、デンマークに逆転でワールドカップ出場を決めた。1994 FIFAワールドカップ本大会では、スペイン代表の全試合に出場、韓国戦(2-2)ではフリオ・サリナスのゴールをアシスト、自らも1ゴールを決め[14]、ドイツ戦(2-2)でも1ゴールを挙げた。1996年UEFA EURO '96を前にした2月7日のノルウェー戦まで[15] の6年間で36試合に出場して4得点を挙げた。
2クラブでチームメイトだったホセ・アンヘル・シガンダ(José Ángel Ziganda)監督の右腕としてCAオサスナとアスレティック・ビルバオのアシスタントコーチとして働いた[2]。2009年夏にはヘレスCDのアシスタントコーチに就任したが、2010年初めに監督ともども解任された。
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