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キャブ・キャロウェイ (Cab Calloway, 1907年12月25日 - 1994年11月18日) は、アフリカ系アメリカ人のジャズ・シンガー、バンドリーダー。キャブはエネルギッシュなスキャット唱法の歌手として知られ、彼のビッグバンドは1930年代初頭から1940年代後半にかけて、アフリカ系アメリカ人のバンドとしてはアメリカ最大級の人気を博した。彼のバンドはトランペットにディジー・ガレスピー、ドク・チータム、サクソフォンにベン・ウェブスター、レオン・“チュ”・ベリー、ニューオーリンズの名ギタリスト、ダニー・バーカー、ベースにミルト・ヒントンらを擁した。
キャブ・キャロウェイ | |
---|---|
基本情報 | |
出生名 | Cabell Calloway III |
別名 | ハイデホー・マン |
生誕 |
1907年12月25日 アメリカ合衆国、ニューヨーク州ロチェスター |
死没 |
1994年11月18日(86歳没) アメリカ合衆国、デラウェア州ホッケシン |
ジャンル |
スウィング ビッグバンド ジャイヴ |
職業 | 歌手、バンドリーダー |
活動期間 | 1930年〜1994年 |
レーベル | RCA他 |
共同作業者 |
ディジー・ガレスピー ルイ・アームストロング ブルース・ブラザーズ |
公式サイト | Cabcallowayllc.com |
キャブは、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロチェスターの中産階級の家庭に生まれた。出生時の名前は、キャベル・キャロウェイIII世。ロチェスターに1918年まで住んだのち、彼はメリーランド州ボルティモアに移り住んだ。父親のキャベル・キャロウェイII世は弁護士、母親のマーサ・ユーラリア・リードは、教師と教会のオルガン奏者であった。
両親は息子の音楽的才能を見抜き、キャブは1922年には歌の個人レッスンを受けるようになり、正式な教育を通じて音楽と歌を学んだ。キャブの両親も歌の教師もジャズを認めようとはしなかったもののキャブはボルティモアのジャズクラブに出入りするようになり、やがてステージにも立つようになった。そこでドラマーのチック・ウェブ、ピアニストのジョニー・ジョーンズと出会い、彼らから教えを受けたのだった。
高校を卒業したのち、キャブはペンシルベニア州のリンカーン大学へ進学した。またキャブは姉のブランチ・キャロウェイとともに、当時人気を博していた黒人音楽のレビュー「プランテーション・デイズ」のツアーに参加した(ブランチはキャプよりも先にバンドリーダーとして成功し、キャブはショービジネスの道に進むきっかけとして彼女の存在を挙げることが多かった)。
大恐慌下にあったもののツアーが成功したこともあり、ミュージシャンとしてのキャリアを優先するために1930年に大学を中退した。その年の秋、シカゴでツアーが終わった。姉が既にシカゴでジャズ・シンガーとして成功を収めていたことから、キャブは姉とともにシカゴにとどまることを決意した。両親は父親のように彼が弁護士になることを望んでいたが、キャブの主たる興味は歌うことと、エンターテインメントにあった。
その後キャブは「ドリームランド・カフェ」、「サンセット・カフェ」、「クラブ・ベルリン」といったクラブにドラマー、歌手、司会として出演した。サンセット・カフェで、キャブはルイ・アームストロングと出会い、共演を果たした。キャブにスキャット唱法を教えたのはルイであった。
デューク・エリントンがツアーに出て不在だった際、キャブ・キャロウェイ楽団(元々1930年に売れないバンド、ミズーリアンズを引き継いだもの)は代役として「コットン・クラブ」へ出演する機会を得た。キャブのバンドは人気を博し、エリントンのバンドとともにクラブのハウス・バンドの地位を得るに至った。そして、彼らは「コットン・クラブ」で演奏していないときは全国をツアーするようになっていった。
NBCが週2回、「コットン・クラブ」の演奏をラジオでアメリカ全土に生中継したことにより、キャブのバンドの人気は一層高まった。キャブはまた、ウォルター・ウィンチェルのラジオ番組やパラマント劇場から放送していたビング・クロスビーの番組にも出演した。このような番組出演により、キャブはエリントンとともにアメリカの主要放送ネットワークにおける人種の壁を打ち破ることに成功したのであった。
当時同様の成功を収めた多くのバンドとは異なり、キャブはバンドの主要メンバーに対してソロを聴かせる時間を充分取り、またウォルター"フッツ"トーマスの変化に富んだ編曲のおかげで、内容の濃い音楽を提供することができたのである。
1931年に、キャブは彼の最も有名な曲であり自身が中心となって作曲した「ミニー・ザ・ムーチャ」をレコーディングした。この曲と「セント・ジェイムズ・インファーマリー・ブルース」、「オールド・マン・オブ・ザ・マウンテン」の3曲は、それぞれ「ベティ・ブープ」の短編アニメ『ベティの家出』(原題:Minnie the Moocher、1932年)、『ベティの白雪姫』(原題:Snow White、1933年)、『山の老人』(原題:The Old Man of the Mountain、1933年)で使用された。
さらにロトスコープの技術によって、キャブは声の出演にとどまらず、アニメの中で彼のダンスを披露することができたのであった。キャブはこの映画をうまく利用した。より多くの注目を得るべく、映画のリリースと一部のコンサートの時期をあわせたのである。「ミニー・ザ・ムーチャ」の大成功により、この曲のコーラスの部分で歌われているフレーズになぞらえて、彼は「ハイデホー・マン」というあだ名で呼ばれるようになった。
1941年には、ディジー・ガレスピーとステージ上でいざこざとなり、キャブがガレスピーをバンドから追い出すという事件があった。ガレスピーの唾がキャブに当たったことが原因だったが、このいざこざにより、ガレスピーはキャブの足を小型ナイフで刺してしまった。
第二次世界大戦下の1943年には、20世紀フォックスの音楽映画「ストーミー・ウェザー」にも出演した。1944年には「新キャブ・キャロウェイのヘップスタージャイヴ語辞典」 (The New Cab Calloway's Hepsters Dictionary: Language of Jive)が発行された。キャブ自身が黒人特有の英語である「ジャイヴ」を解説した書の新版で、彼のファンが知らない可能性のある言い回し(例えば「kicking the gong around」とはアヘンを吸うの意であることなど)を解説している。
第二次世界大戦後の1950年代に、キャブは彼の5人の娘のうち若い3人を育てるために、家族とともにニューヨーク州ロングアイランドから同州グリーンバーグへ引っ越した。
キャリアの後期において、キャブは当時新進のメディアであったテレビジョンにおいて人気のパーソナリティーとなり、さらに映画や舞台に数多く出演し、演劇と歌の才能を発揮した。
1952年にキャブは、ウィリアム・ウォーフィールド、レオンティン・プライスらとともにジョージ・ガーシュウィンのオペラ「ポーギーとベス」において、主たる役を演じた。1965年に公開された『シンシナティ・キッド』では、スティーブ・マックイーン、アン=マーグレット、エドワード・G・ロビンソンらと共演し、イェラー役を演じた。
1967年には、キャブはミュージカル「ハロー・ドリー」の全黒人キャストによるリバイバル(パール・ベイリー主演)にホレス・ヴァンダーゲルダー役で出演した。この作品は大きな成功を収め、RCAがそのキャスト・レコーディングをリリースした。
1973年から1974年にかけて、ブロードウェイ・ミュージカルのリバイバル、「パジャマゲーム」にハル・リンデン、バーバラ・マクネアらと出演したが、不発に終わった。1976年に、自叙伝「Of Minnie The Moocher And Me」を発行。同書には、付録として彼の書いた完全版ヘップスター辞典が収録されていた。
1980年に、キャブは映画「ブルース・ブラザース」と「セサミストリート」への出演により、再度若年層に大きな注目を浴びることとなった。世界的な大ヒットとなった前者には重要な役割を持つ脇役として出演し、さらに劇中で「ミニー・ザ・ムーチャ」を歌った。後者では、2頭のモンスターと一緒に「The Jumpin' Jive」を歌った。これらの影響もあり、同年にカルト映画「フォビドゥン・ゾーン」が公開されたが、この中でキャブのファンであるダニー・エルフマンの書いたキャブの楽曲のパロディーが使用されていた。
晩年にも様々なジャンルで活躍をつづけ、1986年、キャブはWWEの「レッスルマニア2」に出演。ナッソー・ベテランズ・メモリアル・コロシアムで行われたロディ・パイパーとミスター・Tのボクシング・マッチにゲスト審判として登場した。
1988年12月、キャブは唯一の来日公演を行った。神戸市と横浜市、東京都の3都市におけるステージを通じてエンターテイナーの神髄を披露したが、3日あった東京公演の2日目に体調を崩して入院。最終日の公演は中止になってしまった[1]。
1990年には、ジャネット・ジャクソンの曲「Alright」に出演し華を添えた。イギリスでは、スナック菓子「フラフープス」のコマーシャル数件に本人またはアニメの声優として出演。そのうちのひとつでは「ミニー・ザ・ムーチャ」を歌っている。またアポロ劇場にも出演するなど、80歳を超えても精力的に活動した。
1994年6月12日、自宅でテレビを見ていたキャブは脳梗塞で倒れ入院。その後デラウェア州ホーケシンの養護施設に移された。同年11月18日、キャブはこの脳梗塞が原因となり、家族が見守る中86歳の生涯を閉じた[2]。キャブは亡くなる直前まで演奏活動を続けた。
1998年に、キャブの世界的な功績に敬意を表する形で「キャブ・キャロウェイ・オーケストラ」が設立された。このオーケストラは、キャブの孫であるC・キャロウェイ・ブルックスが指揮している。2000年に公開された「ブルース・ブラザース」の後編である「ブルース・ブラザース2000」には、キャブに敬意を表する形で写真で出演している。
キャブは、1980年代にボルティモアのコッピン州立大学の「キャブ・キャロウェイ博物館」の設立を支援した。またビル・コスビーは、キャブの名前を借りてニューヨーク市の社会研究新学校 (New School of Social Research)にて奨学金制度を設立した。1994年には、デラウェア州ウィルミントンにキャブの名義で芸術学校「キャブ・キャロウェイ・スクール・オブ・アーツ」が設立された。
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