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アメリカの数学者 ウィキペディアから
ジョン・フォン・ノイマン(英: John von Neumann、 1903年12月28日 - 1957年2月8日)は、ハンガリー出身のアメリカ合衆国の数学者。ハンガリー語名は Neumann János Lajos(発音 [ˈnɒjmɒn ˈjaːnoʃ ˈlɒjoʃ])。ドイツ語名は Johann Ludwig von Neumann[1](ヨハン・ルードヴィヒ・フォン・ノイマン)。
ジョン・フォン・ノイマン John von Neumann | |
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ジョン・フォン・ノイマン(circa 1940) | |
生誕 |
Neumann János Lajos 1903年12月28日 オーストリア=ハンガリー帝国 ブダペスト |
死没 |
1957年2月8日 (53歳没) アメリカ合衆国 ワシントンD.C. |
居住 | アメリカ合衆国 |
国籍 |
ハンガリー アメリカ合衆国 |
研究分野 | 数学 |
研究機関 |
ベルリン大学 プリンストン大学 プリンストン高等研究所 ロスアラモス国立研究所 |
出身校 |
パーズマーニ・ペーテル大学 チューリッヒ工科大学 |
博士論文 | Az általános halmazelmélet axiomatikus felépítése (The axiomatic construction of general set theory) (1925) |
博士課程 指導教員 | フェイェール・リポート |
博士課程 指導学生 |
ドナルド・ギリース イスラエル・ハルペリン |
他の指導学生 |
ポール・ハルモス クリフォード・ドウカー |
主な業績 | 英文のジョン・フォン・ノイマン参照 |
主な受賞歴 |
ボッチャー記念賞(1938年) エンリコ・フェルミ賞(1956年) |
プロジェクト:人物伝 |
わずか53年あまりの人生で、数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・ゲーム理論・気象学・心理学・政治学の極めて幅広い分野に関する150編の先駆的な論文を発表し、影響を与えた。20世紀科学史における最重要人物の一人とされ、特に原子爆弾やコンピュータの開発への関与でも知られる[2]。
1903年にブダペストにて3人兄弟の長男として生まれた[3]。名はヤーノシュ。愛称はヤーンチ。裕福な家庭で父は銀行の弁護士ノイマン・ミクシャ(英語名:マックス・ノイマン)、母はカン・マルギット(英語名:マーガレット・カン)で、ともにハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人だった[4]。
幼い頃より英才教育を受け、ラテン語とギリシャ語の才能を見せた。6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行い[5]、父親と古代ギリシャ語でジョークを言えた[6]。8歳で微分積分をものにした。[要出典]興味は数学にとどまらず、家の一室にあったヴィルヘルム・オンケンの44巻本の歴史書『世界史』を読了した[7]。好んで読んだもの、特に『世界史』やゲーテ、ディケンズの小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあった[6]。
1910年ごろには父親がフェンシングの先生を招き、家族でフェンシングに取り組んだ。もっとも、ノイマンはまったく上達せず、先生も匙を投げてしまう。また、音楽の先生にピアノやチェロを習わせたが、これもまったく上達しなかった。実はレッスンの最中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでいたことが後から判明した[6]。
1913年に父親が貴族に叙された(オーストリアのユンカーに相当する位)。この段階で「ノイマン・ヤーノシュ」は「フォン・ノイマン・ヤーノシュ」になり、さらにドイツ語のヨハン・フォン・ノイマン(Johann von Neumann)に変わることになる[8]。
1914年にはブダペストにあるルーテル・ギムナジウム「アウグスト信仰の福音学校」へ入学[9]。ノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーとはルーテル校で学友だった[10]。入学したルーテル校のラースロー・ラーツ(en:László Rátz)がノイマンの数学の才能を見抜き、父親に「ご子息に普通の数学を教えるのはもったいないし、罪悪とすらいえるでしょう。もしもご異存がなければ、私どもの責任でご子息にもっと高度な数学を学べるように手配いたします。」と話し、父親が承諾すると、ラーツはブダペスト大学の数学者にノイマンを引き合わせた。その数学者のひとりであるヨージェフ・キルシャーク教授がセゲー・ガーボル講師にノイマンの家庭教師を頼んだ。セゲーは最初の授業で試しに出題した問題をノイマンがみごとに解いたので、その夜自宅で涙を浮かべて喜んでいたと、セゲーの妻は記憶している[11]。
1915年から1916年にセゲーはノイマンの家庭教師を続けた。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授をうけもった。そのうちのミヒャエル・フェケテとリポート・フェイエールが最もよく付き合った[12]。
1920年に17歳のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。その論文は1922年にドイツ数学会雑誌に掲載される[13]。
1921年にラーツは父親との約束を守り、ノイマンが数学以外の科目を勉強するように指導した。ノイマンはギリシャ語、ラテン語や歴史、そして数学の授業も他の生徒と同じように受けていた[13]。同窓生のウィルヘルム・フェルナーやウィグナーによると、ノイマンはみんなから好かれようと懸命に努力しており、いばるそぶりや自分の殻に閉じこもって周りを無視するようなことは無かった。しかし、体育は何をしてもまったくダメで、どうしても周りの学生といっしょになることはできなかった[14]。ギムナジウムでは首席であり、当時の成績表によると、ほとんどの科目は「優」であった。いっぽう、例外的に習字・体育・音楽の成績は落第すれすれの「可」であった[15]。6月に受験した卒業試験「マトゥーラ」では首席であり、さらにエトヴェシュ賞にも合格した[16]。
1921年から1926年にかけてブダペスト大学 (Eötvös Loránd Tudományegyetem) の大学院で数学を学んだ。数学よりも金になる学問をつけさせようと望んだ父親は友人のセオドア・フォン・カルマンに相談し[17]、ベルリン大学とチューリッヒ工科大学を掛け持ちして化学工学 (chemical engineering) を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。1926年、論文がドイツのダフィット・ヒルベルトにいたく気に入られ、ゲッティンゲン大学でヒルベルトに師事した。ヒルベルトも彼に感心するばかりで、瞬く間にヒルベルト学派の旗手となり、1927年から1930年に最年少でベルリン大学の私講師 (Privatdozent) を務めた。しかし、1930年代はナチス政権を避けて、ノイマン一家はアメリカ合衆国に移住することになり、ジョンというアメリカ風の名前に改名した。兄弟はみな異なった姓の表記に変え、ヤーノシュは、フォン・ノイマンvon Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に、彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした[18]。
1930年にプリンストンに招かれ、プリンストン高等研究所の所員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人はアルベルト・アインシュタインとヘルマン・ワイルであった)。1933年以降、この研究所で数学の教授を務めた。ノイマンは、1937年にアメリカに移住してほどなく応用数学を研究し始め、ドイツとの戦争には数値解析が必要であると考えた。そこで、アメリカ合衆国陸軍に自ら志願するが、不採用になった(当時の弾道研究所の責任者をしていたのはカルマンであり、彼は、ノイマンに化学の道を開いた張本人であったため、ノイマンが応用数学の領域に進むのを阻止したかったからであると言われている[誰によって?])。しかし、程なくして爆発物の分野での第一人者となり、アメリカ合衆国海軍に対するコンサルティングの仕事をした。また、ロスアラモス国立研究所でアメリカ合衆国による原子爆弾開発のためのマンハッタン計画に参加していた。さらに弾道研究所が担当していたENIACのプロジェクト開始から1年後、マンハッタン計画に従事していたノイマンもこの電子計算機のプロジェクトに気付いて関わることとなった[19]。
1950年代にはアメリカ合衆国国防総省、中央情報局(CIA)、IBM、ゼネラル・エレクトリック、スタンダード・オイルなど大企業や政府の顧問などさまざまな仕事を引き受け[20][21][22]、特にアメリカ合衆国空軍へのコンサルティングが増え、1953年に発足した通称「フォン・ノイマン委員会」の答申によって合計6種の戦略ミサイルが開発された[23]。しかし、太平洋での核爆弾実験の観測やロスアラモス国立研究所での核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因となって、1955年に骨腫瘍あるいはすい臓がんと診断された(同僚のエンリコ・フェルミも1954年に骨がんで死亡している)。癌は全身に転移。その後も精力的に活動を続け、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たし続けた。アメリカ原子力委員会初代委員長ルイス・ストローズの回想によれば「あるとき国防総省がノイマンに相談することになった…。移民だった彼のベッドはいまや国防長官、副長官、陸海軍の長官や参謀長達に囲まれていた」という。また1951年から翌年までアメリカ数学会会長を務めた。
1956年1月にワシントンD.C.のウォルター・リード病院に入院。死が間近になると、以前は信仰に熱心でなかったにもかかわらず、1度目の結婚の際に改宗したカトリック教会の司祭と話すことを望んで、周囲を驚かせた。1957年2月に53歳で死去。ニュージャージー州のプリンストン墓地に埋葬されている[24]。
兵器である砲弾や爆弾は、爆発さえすれば目標になんらかの影響を与えることはできるが、その威力は単純に爆薬量だけに依存するわけではない。威力は爆発方法や弾体の形、構造などによっても大きく異なる。
フォン・ノイマンは、1930年代半ばから爆発時の空気や液体などの流体の衝撃波に興味を持った。彼は1940年頃から衝撃波の理論構築を進め、平面だけでなく球面衝撃波の問題も研究した。1941年からは国防研究委員会(NDRC)の顧問、後に委員となり、爆発時の噴流を特定方向に集中させて威力を増す指向性爆薬(成形炸薬)の爆発も研究した[26][要ページ番号]。
また、爆発時に衝撃波がどのように発生するかは、流体力学の非線形偏微分方程式を何らかの手段で解く必要があり、この必要性が彼が電子計算機に関わるきっかけの一つとなった。
1944年8月に、フォン・ノイマンは数学者ハーマン・ゴールドシュタインと偶然に知り合いになった。その際に彼はゴールドシュタインから初の汎用電子コンピュータENIACのことを聞いた。彼は高速での計算が可能になれば、さまざまな分野の非線形偏微分方程式を数値的に解くことができ、そうなれば、さまざまな分野に全く新しい革新をもたらすことを知り抜いていた。フォン・ノイマンは素早く電子コンピュータの本質を理解し、ENIACの演算回路の改良とともに次に計画されていた計算機EDVACの性能を格段に上げるため新しい発想を練り上げた。彼はENIACを知ってわずか2週間でプログラム内蔵型コンピュータの概念を作り上げ、翌年3月には現在のコンピュータの基本構成となる案を作り上げた[31]。
1945年にはプリンストン高等研究所(IAS)でENIACの後継の独自の新型コンピュータ開発のためのプロジェクトである電子コンピュータプロジェクト(Electronic Computer Project)を立ち上げた。この膨大な資金を必要とする電子コンピュータの開発には、資金集めのためのわかりやすい目的が必要だった。彼は1945年頃にシカゴ大学の気象・海洋学者であるカール=グスタフ・ロスビー(Carl-Gustaf Rossby)から、気象予測が主観的な職人芸となっていることを知った。電子コンピュータによる気象予測やその結果を用いた気象改変は人々にとってわかりやすい目的だった。彼は気象予測のための非線形偏微分方程式(プリミティブ方程式)を電子コンピュータを使って数値計算すれば、職人芸ではなく客観的な予報(数値予報)ができると考え[32]、電子コンピュータプロジェクトの一つに数値予報の開発を加えた。
ものごとをとにかく前に進めることが得意なフォン・ノイマンは、さっそく1946年に海軍などを説得して資金を集めた。そして、電子コンピュータを使った数値予報を研究するために「気象プロジェクト(Meteorology Project)」を立ち上げ、世界の主な気象学者を集めて会議を開いて、気象学者たちをまとめた。これによってプロジェクトは実現へと踏み出した[33]。しかし、数値予報はイギリスの気象学者ルイス・リチャードソン(Lewis Richardson)が第一次世界大戦中に手計算で行って失敗しており、単に偏微分方程式を差分形にして電子コンピュータで計算するだけではうまくいかないことははっきりしていた。その打開のために、1948年にアメリカの気象学者ジュール・チャーニー(Jule Charney)が気象プロジェクトに招かれた。チャーニーによってリチャードソンによる失敗の回避が行われ、電子コンピュータを用いた数値予報のための手法が切り開かれていった[34]。
数値予報の実験は、当初ENIACではなくその後継マシンで行う予定であったが、後継マシンの開発が遅れたため、1950年からENIACを使って、順圧モデルという気象の移流のみを予測する簡易化された気象予報モデルで予報の再現実験が行われた。この際に、モデルを内部記憶装置が小さいENIACで計算できるようにするために、フォン・ノイマンがその手法を開発した。この結果は1950年に発表され、数値予報が実現可能であることを実証した記念碑的な論文となった。この論文の3名の著者の一人としてフォン・ノイマンも入っている[35]。
フォン・ノイマンが高等研究所で開発していたコンピュータ(IASマシン)が1951年に完成した。この高速の計算機を利用して、1952年にはチャーニーらは、複雑な傾圧モデルを用いて低気圧発達の再現に成功した。これを受けて、現業運用のための数値予報モデルの開発のために、1954年にアメリカに「合同数値予報グループ(Joint Numerical Weather Prediction Unit: JNWPU)」が設立された。これは後に、現在アメリカで数値予報を行っている国立環境予報センター(National Center for Environmental Prediction: NCEP)となっていった。
一方で、1956年にはシカゴ大学の気象学者ノーマン・フィリップス(Norman Phillips)が、大気大循環モデルの計算実験を行って、地球上の大気の典型的な気候学的循環パターンの再現に成功した。その将来性に気付いたフォン・ノイマンは、早速大循環モデルのその後の発展のための会議のお膳立てをした。しかし、がんが進行していたフォン・ノイマンは、1957年に亡くなってしまった。しかし、気象プロジェクトから始まった数値予報モデルと大循環モデル(気候モデル)は、現在日々の天気予報やIPCCなどで議論されている地球温暖化の将来予測に欠かせないものである[36]。
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