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初代ランダッフ子爵ヘンリー・マシューズ[3](英: Henry Matthews, 1st Viscount Llandaff, PC, QC, 1826年1月13日 - 1913年4月3日)は、イギリスの政治家、貴族。
初代ランダッフ子爵 ヘンリー・マシューズ Henry Matthews 1st Viscount Llandaff | |
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1890年頃のマシューズ | |
生年月日 | 1826年1月13日 |
出生地 | イギリス領セイロン |
没年月日 | 1913年4月3日(87歳没) |
出身校 | パリ大学、ロンドン大学 |
前職 | 法廷弁護士 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 初代ランダッフ子爵、勅選弁護士(QC)、枢密顧問官(PC) |
内閣 | 第2次ソールズベリー侯爵内閣 |
在任期間 | 1886年8月3日 - 1892年8月11日[1] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
ダンガーバン選挙区 東バーミンガム選挙区[2] |
在任期間 |
1868年11月17日 - 1874年1月31日 1886年7月1日 - 1895年7月13日[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1895年 - 1913年4月3日[2] |
保守党所属の政治家であり、第2次ソールズベリー侯爵内閣において内務大臣(在職1886年 - 1892年)を務めた。1895年にランダッフ子爵に叙せられるが、子供がなかったため、爵位を継承させられなかった。
1826年1月13日にイギリス領セイロン(現スリランカ)の陪審判事ヘンリー・マシューズとその妻エマの長男としてセイロン島で生まれる[4][5]。
1844年にパリ大学を卒業し、ついで1849年にロンドン大学を卒業した。1850年にはリンカーン法曹院で学び、法廷弁護士資格を取得[4]。1864年から1869年にかけては紋章院総裁の秘書官を務める[4]。1868年には勅選弁護士となる[4]。
1868年から1874年にかけてダンガーバン選挙区から選出されて保守党所属の庶民院議員を務める[4]。1886年から1895年にかけては東バーミンガム選挙区から選出されて庶民院議員を務める[4]。
1886年8月から1892年8月にかけて第2次ソールズベリー侯爵内閣の内務大臣を務める[1]。就任早々マシューズは警察の信頼回復のための人心一新を企図して陸軍少将サー・チャールズ・ウォーレンを首都警察警視総監に据えた。しかしウォーレンは1887年にハイド・パークで起こった失業者による「仕事かパン」デモを近衛連隊を動員して弾圧したため、民心はますます警察から遠いた[6]。
1888年に発生した切り裂きジャック事件をめぐっては警視総監ウォーレンと副警視総監・犯罪捜査部長ジェームズ・モンローの対立が深まったため、マシューズは11月にもウォーレンの辞表を受理してモンローを後任の警視総監としている[7]。また同月「共犯者ないし実行犯以外の者で、犯人につながる情報、証拠をもたらした従犯者は、女王陛下の御慈悲により内務大臣は特赦することを認める」とする特赦状を発したが、結局犯人は見つからなかった[7]。
内務大臣退任後の1895年8月5日に連合王国貴族爵位「ヘレフォード・カウンティにおけるヘレフォードのランダッフ子爵(Viscount Llandaff of Hereford in the County of Hereford)」に叙せられ[4][8]、貴族院議員に列する[2]。
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