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アメリカのブルース・ミュージシャン ウィキペディアから
マッキンリー・モーガンフィールド(McKinley Morganfield)、別名マディ・ウォーターズ(Muddy Waters、1913年4月4日 - 1983年4月30日)は、アメリカ合衆国のブルース・シンガー、ギタリスト。シカゴにおいてエレクトリック・ギターを使ったバンド・スタイルのブルースを展開し、シカゴ・ブルースの形成に大きな足跡を残したことから、「シカゴ・ブルースの父」と称される。生涯に6度グラミー賞を受賞し[2]、没後の1987年にはロックの殿堂入りを果たした[3]。
その豊富で深遠な声、豪快なボトルネック・ギター、カリスマ的キャラクターで、ブルース界の第一人者となった。ロック界においても、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ロリー・ギャラガー、ポール・ロジャース、ジョン・メイオール、フリートウッド・マックなど、彼から影響を受けたミュージシャンは枚挙にいとまがなく、その影響力は計り知れない。
クラークスデイル郊外ストーヴァルのプランテーションにて幼少期を過ごす。泥んこになって遊ぶのが大好きだったことから、「マディ・ウォーターズ(泥水)」のニックネームで呼ばれるようになった。7歳でハーモニカを始め、のちにギターに転向。当時の彼のアイドルは、サン・ハウス、ロバート・ジョンソンらであった。なお、1915年ミシシッピ州ローリング・フォーク生まれとされてきたが、近年の研究[4]により1913年にミシシッピ州のイサケナ郡とするのが定説となっている。
1941年8月、アメリカ議会図書館のフィールド・レコーディングのためにミシシッピ州を訪れたアラン・ローマックスが、ストーヴァルでウォーターズをレコーディングする。これが彼の初レコーディングとなった。1943年、イリノイ州シカゴに移住。1946年にはコロンビアでレコーディングを行っている。
1947年、サニーランド・スリムに誘われ、アリストクラット・レーベル(後のチェス・レコード)のレコーディングに参加。これは、スリムのバッキングをするためであったが、マディも「ジプシー・ウーマン」(英語: Gypsy Woman)、「リトル・アンナ・メイ」(英語: Little Anna Mae)の2曲をレコーディングした。これが彼のレーベルからのデビュー盤となった。このときの編成はスリムのピアノ、ビッグ・クロフォードのベースのみをバックにつけたもので、まだバンド・スタイルではなかった。
バンド・スタイルでレコーディングするようになったのは、1950年のパークウェイ・レーベルのセッションから。リロイ・フォスターとリトル・ウォルターがヴォーカルを取るセッションではあったが、初めてウォルターがハーモニカをプレイするなど、実質的にマディ・ウォーターズ・バンドの始動とも言える内容であった。パークウェイに負けじと、続いてチェスもマディをバンド・スタイルでレコーディングするようになった。1953年にはオーティス・スパン、1954年にはウィリー・ディクスンがレコーディングに加わるようになり、マディのバンドの形が完成する。同年、「フーチー・クーチー・マン」、「恋をしようよ」、「アイム・レディ」など、彼の代表曲となる曲がレコーディングされた。1955年にも「マニッシュ・ボーイ」などがヒットする。1958年には、初のイギリス・ツアーを体験する。
1963年、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のために渡欧。翌年、当時のフォーク・ブームに乗る形でアルバム『フォーク・シンガー』をリリースした。同作には、ギターにバディ・ガイが参加している。この年もフェスティバルのために再度渡欧した。
1968年、異色作『エレクトリック・マッド』をリリース。これは、ロック・ファンにアピールするために、大胆にサイケデリックなアレンジを施した作品であった。ロックへの傾向は続く1975年の『ウッドストック・アルバム』でさらに顕著となる。ここではザ・バンドのリヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、ポール・バターフィールドなどロックミュージシャンが参加している。
翌1976年には、ザ・バンドの解散コンサート「ラスト・ワルツ」に出演。ザ・バンドをバックに「マニッシュ・ボーイ」を歌う様子は、同名のドキュメント映画に記録されている。しかし彼の出演に関してはコンサートの2日前になり、マネジメント側は出演者が多すぎるとの理由で削る意向を示していた。ヘルムがこれに強硬に反対したため、結果的に予定通り出演することとなった[5]。
1977年、ジョニー・ウィンターと組んでブルー・スカイよりアルバム『ハード・アゲイン』をリリース。また、同年リリースされたウィンターのアルバム『ナッシン・バット・ザ・ブルース』のレコーディングに参加。以後、ウィンターのサポートを得て1981年までに計4枚のアルバムをリリースした。
1980年5月に来日し、新宿厚生年金会館、サンケイホール、愛知県勤労会館、渋谷公会堂を回った。これが唯一の来日ツアーであった。
1983年、イリノイ州ウェストモントにて70歳で死去。シカゴ近郊のオールシップにあるレストヴェール墓地に埋葬された。
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1964年、チェススタジオでレコーディングした時の話さ。 |
」 |
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ある日俺は新車の遠乗りがしたくなって、シカゴに親戚がいるという友達のラルフと2人でシカゴへとドライブしたんだ。 そして、今度は憧れのマディ・ウォーターズが出演するクラブへ行ったんだ! 「レナード・チェスに会ってみろ!そう、47丁目とカテッジの角にあるチェスレコードさ!」 俺に音楽を愛する事を教えてくれた人。 それがブルース界のゴッドファーザー、マディだ! |
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