Loading AI tools
日本の戦国時代の公卿、大名。土佐一条氏2代。一条教房の次男。正二位、権大納言、土佐国司。妻に源惟(兵部少輔)の娘。子に尊快、一条房忠(子に兼頼)、一条教行、一条兼朝、盛岳 ウィキペディアから
一条 房家(いちじょう ふさいえ)は、戦国時代の公卿。関白・一条教房の次男。土佐一条氏の初代当主[1]。
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2024年1月) |
文明7年(1475年)(『公卿補任』)または文明9年(1477年)(『大乗院雑事記』)に関白・一条教房の次男として誕生。兄の政房とは30歳近く年が離れており、房家の誕生時には既に兄は戦死していた。
土佐一条氏は、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向して、土佐に在国しながら、公家として高い官位を有しつつ、土佐国最南端部に位置する幡多郡及び高岡郡(高知県西部)を支配した「地域権力」である[2][3]。「戦国公家大名」とされてきたが、このような概念は、極めて曖昧な概念で、一条氏が武家化した存在であったとしても、戦国大名とは言えないとする説がある[4][5]。
明応3年(1494年)、18歳で元服、正五位下、左近衛少将になる[6]。房家自身もその名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築き、土佐一条氏の最盛期を築き上げた。本拠地の中村には「小京都」と呼ばれるほどの街を建設した。なお、現在の四万十市にある東山や鴨川という地名は、房家が京都にちなんで名づけた地名であるといわれる。
また、永正5年(1508年)長宗我部兼序が本山氏によって滅ぼされると、その遺児・長宗我部国親を保護し、その再興を助けた。永正6年(1509年)、三条西実隆と詩歌のやりとりや、実隆を通じて宸筆詩歌懐紙を所望しており文芸活動を確認できる(『実隆公記』)[7]。
注記のないものは『諸家伝』による。
注記のないものは『系図纂要』による。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.