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室町時代から戦国時代の武士。相模国七沢城。 ウィキペディアから
上杉 朝昌(うえすぎ ともまさ)は、室町時代から戦国時代にかけての武士。相模国七沢城[注釈 1]に拠ったことから七沢朝昌とも呼ばれる。
本項では朝昌の他に、その子のうち建長寺の僧・東永、朝寧、上杉憲房後室についても記述する。
上杉持朝の子として誕生。その生涯には不明な部分も多いが、初めは僧侶として京都の相国寺において本東と名乗り、長禄2年(1458年)に父・持朝の名代として8代将軍・足利義政に拝謁した人物が朝昌の前身にあたると考えられている。
享徳3年(1455年)から勃発した享徳の乱の初期には相国寺鹿苑院の喝食だったが、後に何らかの理由で還俗して扇谷上杉家の領国支配の一翼を担い、相模七沢城に入った。七沢城は相模中郡の、また後年守備した大庭城は相模東郡の要衝であることから、扇谷上杉氏の両郡支配を実質的に担う立場にあったと考えられる[1]。また文明12年(1480年)に足利義政・義尚父子に進物を贈るなど、扇谷上杉氏当主とは別に、独自に幕府と交流を持っていたようであり、その政治的地位の高さも窺える[2]。これらの事例から、扇谷上杉氏における極めて有力な一門だったと考えられる[2]。
文明8年(1476年)から長尾景春の乱が起こると、文明9年(1477年)に太田道灌・千葉自胤らと共に豊島泰経攻撃に参加した(江古田・沼袋原の戦い)。長享元年(1487年)からの上杉家同士の内訌である長享の乱が始まると、長享2年(1488年)に関東管領・上杉顕定の侵攻を受けて七沢要害は陥落し、以後は大庭要害に拠った。
明応3年(1494年)に兄・定正が没すると、自分の子である朝良を当主としてその後見役となったが、伊勢宗瑞(北条早雲)の相模進出に伴い勢力を失っていった。明応8年(1499年)9月6日、父・持朝の三十三回忌法要が行われたが、この時点で生存している持朝の男子は三浦高救、叔彭梵寿、朝昌の三人だった。永正年間に再び出家して光迪と名乗った事は確認できるが、その後の動向は不明。享年は71とされているものの、生没年も不詳である。
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