Loading AI tools
ウィキペディアから
高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣で、大友宗麟の重臣。吉弘鑑理の子であり、柳川藩初代藩主立花宗茂、三池藩藩祖立花直次の実父にあたる。
高橋紹運像(天叟寺所蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文17年[1](1548年) |
死没 | 天正14年7月27日(1586年9月10日) |
改名 |
千寿丸(幼名) 吉弘鎮理 → 高橋鎮種→紹運 |
別名 |
鎮理、鎮種、鑑盛[2] 通称:弥七郎[3][4]、主膳[5]、三河[6]、民部 法号:紹運(紹雲[7]) |
神号 | 三岩霊神 |
戒名 | 天叟院殿性海紹運大居士 |
墓所 | 福岡県太宰府市の岩屋城跡および般若寺跡と同市西正寺、同県柳川市天叟寺、同県大牟田市紹運寺 |
官位 | 主膳正、三河守 |
主君 | 大友義鎮 (宗麟)→義統 |
氏族 | 吉弘氏→筑後高橋氏 |
父母 | 父:吉弘鑑理、義父:高橋鑑種 |
兄弟 | 吉弘鎮信、鎮種 (紹運)、尊寿院(大友義統室)、女(戸次鎮秀/宗傑室) |
妻 |
正室:宋雲院(斎藤鎮実または長実の娘[3]) 側室:松尾殿(萩尾大学の娘)[8] |
子 |
統虎 (立花宗茂)、統増(立花直次)、市郎丸(統重)[異説][10]、某[異説][8] 女(大友義乗室)、加屋(宗茂養女、立花親家室後に細川興元室)、甲斐(立花成家室)、於千代(小田部統房室) |
諱は、初名は鎮理で吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)を名乗ったが、高橋鑑種の反乱鎮定後、宗麟の命で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、大蔵氏の通字の「種」を入れて高橋 鎮種(たかはし しげたね)と改めた。剃髪して法名を紹運と称したので高橋紹運の名でよく知られる。
天文17年(1548年)[1]、大友義鎮(宗麟)の三家老[12]の一人である吉弘鑑理(屋山城主[13])の次男として豊後国国東郡(現豊後高田市)の筧城(かけいじょう)[14]で生まれた。元服して主君義鎮からの偏諱を受け、父鑑理からも1字賜って、鎮理と名乗り、通称は弥七郎[4]とした。
永禄4年(1561年)8月、義鎮は毛利方の門司城を落とせば、宗像氏・高橋氏・長野氏らは自ずから降って味方になると考え、(紹運の兄)吉弘鎮信と大友駿河守を大将として1万5千の大軍を豊前小倉に送った。しかし10月から11月にかけて攻城戦と海戦た行われたが、この第四次門司城の戦いに大友勢は敗退した[15]。
永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、豊前国・筑前国・肥前国の国人がこれに連携して反乱を起こしたとき、鎮理は父鑑理や兄吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。しかしこの反乱自体は、戸次鑑連(立花道雪)が、豊後国の朽網鑑康、筑後国の蒲池鑑盛、田尻鑑種らを指揮して戦ったものの、秋月種実が鑑種に加勢して急襲した休松の戦いで敗退している。
永禄12年(1569年)、宗麟は大挙して肥前の龍造寺隆信を攻めたが、背後を脅かすように毛利元就が筑前の立花城を攻めたために、龍造寺氏とは和議を結んで、毛利氏にあたる。多々良浜の戦いで大友側が勝利すると種実は投降。その後、毛利氏は撤退したので、後ろ楯を失った鑑種もついに降伏して宝満山城を開城した。実家の一萬田氏の嘆願によって、鑑種は助命されたが、所領没収の上で豊前小倉へと追放された。
元亀元年(1570年)5月[16]、鎮理は豊後国国東郡より出て、家族や郎党を連れて太宰府に移った[3]。8月の今山合戦の敗戦の後に筑前の守りの重要度は増した。11月[4]、宗麟は、浪人していた旧高橋氏の家臣の嘆願を聞き入れて[17][18]高橋氏の再興を認めて、鑑理の次男鎮理にその名跡を継ぐことを命じた。鎮理は、先代鑑種の一字でもあり大蔵氏(高橋氏)の通字でもある「種」をとって、名を鎮種と改めると共に、通称も主膳兵衛に改めて、高橋主膳兵衛鎮理を称するようになった[3]。宗麟はこの鎮種に、三笠郡2千余町の土地と岩屋城と宝満山城の両城を与えた[3]。
以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪の補佐役を務めながら筑前国支配に貢献した。
その後岩屋・宝満山城主の鎮種など大友の筑前五城将(道雪、鎮種と鷲ヶ岳城主大鶴鎮正、荒平城主小田部紹叱、柑子岳城主先後に臼杵鎮続、木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実、筑紫広門、原田隆種、龍造寺隆信、宗像氏貞、麻生元重、杉重良、問註所鑑景、城井鎮房、長野助盛、千手宗元など筑前、筑後、肥前、豊前諸勢力に対して、数次の岩屋、宝満山城攻防、柴田川の戦い、蓑島城攻め、石栗領の戦い、石坂の戦い(鍬摺の戦いとも)、荒平城救援、二日市の戦い、太宰府の戦い、鞍手の戦い、吉水の戦い、鷲ヶ岳城救援、高尾山の戦い、豬膝の戦い、蘆木山の戦い、奈須美の戦い、観世音寺の戦い、数次の嘉麻・穗波の戦い(石坂、八木山、潤野原の戦いとも)、吉原口防戦、許斐山城攻め、米山の戦いなど数々の戦を繰り返した。
その内、天正6年(1578年)宗麟は島津氏討伐を企図し始める。道雪と鎮種はこの方針に反対していたが、宗麟は日向侵攻を強行した。この際、道雪と鎮種は従軍していなかった、同年鎮種は剃髮して紹運と号している。のち耳川の戦いで大友氏が薩摩国の島津氏に大敗を喫し、兄の吉弘鎮信、妻兄の斎藤鎮実や大友氏重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将を失って、衰退し始めると、肥前国の龍造寺氏や筑後国の筑紫広門、筑前国の秋月種実らが大友領への侵攻を開始する。このとき宗麟は日向国や筑後国方面で島津氏・龍造寺氏と戦っていたために援軍を送れず、紹運の守る筑前国は半ば敵勢力の中に孤立した状況にあった。紹運は道雪と協力して秋月氏や筑紫氏らを何度も破り、その智略・武勇を見せつけたのである。
天正9年(1581年)、実子のない道雪から嫡男・統虎(後の立花宗茂)を立花家の養嗣子にと請われる。統虎は高橋家の大事な跡継ぎでありその優れた器量も見抜いていたことから最初は拒絶したが、実の父のような存在である道雪の度重なる要請により遂にこれを受け入れた。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、紹運は道雪や朽網鑑康と共に筑後を守るべく戦っていた。3月、豊後の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻略したが8月にわたって難攻不落であった、18日、紹運と道雪は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍の態勢で先後的に敵の筑紫氏、秋月氏、星野氏の領地・筑後川や道路は未整備の筑後鷹取山、耳納連山の高峰や九十九折など山険難所を越え、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野聯合軍を蹴散らし、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、19日、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日高牟礼城開城、さらに川崎重高の犬尾城を攻め落とし、28日は城島城、酒見・榎津・貝津を掃討して、ついに9月1日猫尾城を落城させた。
のち8日、蒲池鎮運の山下城や谷川城、邊春城、兼松城、山崎城、田尻鑑種の鷹尾城など筑後諸城を降伏、攻落した。龍造寺家晴の柳川城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていて、さすがの紹運、道雪も攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、軍勢を転じて久留米城、安武城、西牟田城、吉木城を攻落した。4日、両軍は草野鎮永の発心岳城を進攻し、のち星野吉実の鷹取城、福丸城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めた。その際、豊後大友軍の総大将・田原親家は両将の戦功を嫉み、更に年の暮れが迫っていたので、豊後に引揚げた。残された紹運、道雪や朽網鑑康、志賀親守らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。
天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、千手鑑元、長野種信など肥前、筑前、筑後、豊前聯合軍およそ30,000余の大軍と小森野、十三部、祇園原など地(総じて筒川合戦や久留米合戦)[19]で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康ら大友軍は9,800兵の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用して敵大軍を撃ち破った。
天正13年(1585年)9月に道雪が病死すると事態は急変する。この頃、大友氏の宿老・家老格の名将らは耳川の戦いで多くが戦死し、後を継いだのは経験不足の未熟な武将ばかりであった。特に筑後方面では盟主といえる蒲池鑑盛は先の耳川の戦いで戦死に加え道雪の死去により、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまったのである。これを好機と見た筑紫広門に宝満山城を攻撃されて奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満山城の奪回に戻る。そして広門と和睦し、広門の娘を次男・立花直次(高橋統増)の正室に迎えた。
天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく5万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にし、岩屋城は陥落した。享年39。この激戦の様子を『筑前続風土記』は「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし。」。また、『北肥戦記』には「合戦数度に及びしかども、当城は究意の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり。」と記されている。『西藩野史』にも「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」と記している。
紹運の墓所は2ヶ所在り、岩屋城に胴塚、般若寺跡近くに紹運の首塚と伝わる塚がある。
紹運以下、高橋家家臣団の命日7月27日には、高橋家の縁者が現在でも菩提寺である西正寺に集まり岩屋城戦犠牲者追悼法要を行っている。
|
|
|
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.