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鎌倉時代後期の武士 ウィキペディアから
弘安10年(1287年)の生まれとされる[1]。これに基づけば、得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる[注釈 1]。その後の貞時・高時政権期の活動は不明である。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたった[6][7]が、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れた。大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った[6]後、同月22日に北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した(東勝寺合戦)[3]。
しかし、以上の内容は『太平記』に見られるものであり、実際の史料ではそれより前の5月9日に、六波羅探題北方の北条仲時らと共に自害したとされる[2]。いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである。
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