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南洋諸島を統治する行政機関 ウィキペディアから
南洋庁(なんようちょう、旧字体:南洋廳)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島(内南洋)に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年の太平洋戦争敗戦時に事実上消滅した。
第一次世界大戦が終了し、ヴェルサイユ条約において決められた国際規約で1920年1月に発足した国際連盟は、常任理事国である日本がA~C式のうちC式によって、それまでドイツの植民地であった南洋群島を委任統治することを認めた。
この時、近隣諸島に利権を持つアメリカは賛意を示さなかったが、国際連盟理事会は1920年12月17日に再度是認(「南洋群島に対する帝国の委任統治条項」の調印)の意志を示し、アメリカも同意した。国際連盟で決められたC式の統治とは、受任国が委任統治領を自国の一部として扱うことができるが、元からの住民の統治に対しては下記の取り決めに従う義務が発生した。
なお、住民には受任国の国籍を与えることが許されず、受任国による委任統治領の完全併合を一定程度阻止した。そのため、後述のように、日本人向けの学校と元からの住民向けの学校で分けられ別々に教育が行われるなど二重の制度が存在することとなった。
1922年2月11日にミクロネシアに対する委任権が発効し、同年3月に日本政府は総理府の下に「南洋庁」をパラオのコロール島(本庁)に設置し、第一次世界大戦後引き続き占領統治を行っていた海軍(臨時南洋群島防備隊)から施政を受け継いだ。初代長官は防備隊民生部長の手塚敏郎。そして南洋庁は広大な南方海域(内南洋と称した。)に渡る623の島を統轄することとなった。1924年に南洋庁は外務省に移管された。
1929年に拓務省が発足してからは、その監督下にあり、一般行政については拓務大臣の指揮監督を受けた。しかし、郵便、司法、関税などの事務については所轄の各大臣の監督を受けた。
南洋群島は国際連盟の委任統治領であるため、南洋庁は日本の諸法令の他に国際連盟理事会が制定した「委任統治条項」にも服する義務があった。
1933年(昭和8年)に満州国問題に絡んで日本が国際連盟を脱退すると、委任統治の根拠が薄くなったが、同年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行った。一方で国際連盟を脱退したということで「委任統治条項」は無効であるとの見解を示し、第4条に反し来るべき対米戦争のためにワシントン海軍軍縮条約が失効した1936年以降は各島の基地化、要塞化を推し進めていくことになる。なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。
大東亜戦争中の1942年(昭和17年)に、外地が広大になっていくに伴って拓務省は大東亜省に再編されたため、南洋庁は大東亜省の指揮監督下に置かれるようになる。1943年(昭和18年)ころから南方の戦況が悪化し、邦人の内地引き揚げが始まるとともに従来の6支庁から3支庁(トラック、パラオ、サイパン)に簡素化される。
1944年2月にマーシャル諸島でのクェゼリンの戦い、エニウェトクの戦い、及びトラック島空襲があり、南洋庁下の各島は激戦地と化していった。3月にはパラオ大空襲があり、本庁の置かれていたコロール島の市街は空母艦載機による爆撃で7割方焼失した。同年4月14日の閣議決定「南洋群島戦時非常措置要綱」により、軍人を南洋庁職員に特別任用すると同時に南洋庁職員は軍属となり、コロール島の隣島でパラオ諸島で最大であるバベルダオブ島のジャングル内に退避する。この時点で南洋庁は機能停止する。
1945年8月の終戦に伴い、大東亜省は解体し、南洋庁は外務省に移管された。終戦直後に一部、パラオ諸島などでは南洋庁ないし西部支庁として役所業務機能を回復し、邦人が集められていたバベルダオブ島内で数カ所に出張所を置き、食料生産などの内政を行いながら在留邦人や沖縄人の帰還を助け軍隊の引き揚げから米国主導の施政への空白期の行政を補てんした。
1946年2月26日に南洋庁長官はパラオを引き揚げる。南洋庁東京出張所が南洋庁残務整理事務所になり1948年3月まで残務整理を行った。これをもって南洋庁は消滅した。
南洋庁発足時には、長官官房、内務部、財務部、拓殖部が置かれた[1]。
1924年には行財政整理の一環として部制を廃止し、組織を大幅に簡素化。
のちに総務課を庶務課と財務課に分割。
1936年に部制を復活。
1942年に交通部を新設。
1943年に簡素化。
1943年11月5日、従来の6支庁を3支庁に統合し、3支庁5出張所となる。各支庁には総務課、経済課、警務課を設置。
第一審法院の地方法院と第二審法院の高等法院の2審制度であった[3]。
各法院には検事局が附置された。
一般気象観測のほか、上層気流観測、海洋気象観測、地磁気観測、地震観測が行われた。1938年には、南洋庁気象台官制(昭和13年勅令第504号)が公布され、南洋庁気象台として、南洋庁本庁から独立した機関となり、トコペ、ヤップ、オレアイ、サイパン、ポナペ、ヤルート、エニウエタック、ロタ、モウグ、クツルー、エンダービー、ピンゲラップに測候所が置かれた。
定員は度重なる官制改正を経て段階的に増員された。
南洋庁発足当時の職
南洋庁発足後の増員
代 | 氏名 | 在任期間 | 前職 | 退官後の職 |
---|---|---|---|---|
1 | 手塚敏郎 | 1922年4月1日 - 1923年4月4日 | 臨時南洋群島防備隊民政部長 | 休職のち依願免本官 |
2 | 横田鄉助 | 1923年4月4日 - 1931年10月11日 | 賞勲局書記官 | 在職中に死亡[4] |
3 | 堀口滿貞 | 1931年10月12日 - 11月21日 | 南洋庁書記官・庶務課長 | 依願免本官 |
4 | 田原和男 | 1931年11月21日 - 1932年2月5日 | 拓務省殖産局長 | 依願免本官 |
5 | 松田正之 | 1932年2月5日 - 1933年8月4日 | 元・拓務書記官 | 朝鮮総督府専売局長 |
6 | 林壽夫 | 1933年8月4日 - 1936年9月19日 | 関東庁警務局長 | 依願免本官 |
7 | 北島謙次郎 | 1936年9月19日 - 1940年4月9日 | 拓務省殖産局長 | 依願免本官 |
8 | 近藤駿介 | 1940年4月9日 - 1943年11月5日 | 熊本県知事 | 依願免本官 |
9 | 細萱戊子郎 | 1943年11月5日 - 1946年3月12日 | 海軍中将・軍令部出仕 | 依願免本官のち公職追放 |
南洋庁の財政は、南洋庁特別会計法(大正11年法律第25号)の定めるところにより、予算を執行した。
臨時南洋群島防備隊の頃から歳入のほとんどを政府からの補助金に頼っていた[42]が、南洋興発の事業拡大(主にマリアナ諸島の製糖事業、税収源は出港税)によって、同社の納税額が飛躍的に増大(南洋庁の税収の約60%を占めた)したことにより、1932年(昭和7年)には補助金依存から脱し、財政的自立が達成できるまでになった。これは台湾、朝鮮、樺太、満州などの本土外支配の中で台湾総督府に次ぐ財政黒字化の実現であり、また南洋庁設立10年という極短期間での偉業であった。
1922年(大正11年)の南洋庁発足と同時に下記の7ヶ所に南洋庁医院が設置され、医長、医官、医員、薬剤員、看護師及び産婆が置かれ、現地人や日本人の診療にあたった。医長、医官、医員を含めた医師は1939年時点でサイパン医院5人、パラオ医院6人、ヤップ医院2人、トラック医院3人、ポナペ医院3人、ヤルート医院3人、アンガウル医院2人の規模であった[43]。
また、本国から遠いドイツの植民地下では蔑ろにされていた、南洋諸島における疫学調査や地方病の調査研究なども積極的に行われていた。独自に南洋庁警務課によって「南洋群島地方病調査医学論文集」(第1-5輯(集))が1933-1939年間に刊行されており、岡谷昇、長崎協三、藤井保や各島の医院に飛び石勤務していた鮫島宗雄医学博士らが広義にミクロネシア人、狭義にマーシャル人等各島嶼区域原住民における医学的、疫学的、人類学的な調査結果を報告している。[44] なお、トラック医院とトラック島で発生したトラック事件(海軍生体解剖事件)(トラック島海軍第四病院)とは全く関係がない。
日本人男子のみ、修業年限5年
日本人女子のみ、修業年限4年
修業年限3年
日本人向け、尋常科と高等科を設置、1941年度より国民学校に改称、特に記載のないものは1922年設置。
島民向け、本科(3年)と補習科(2年)を設置、特に記載のないものは1922年設置。本科は義務教育課程で8歳前後に入学。主たる教師は基本的に日本人であった。本科で優秀な成績を修めた者がさらに補習科へ進む。割合としては本科課程修了者の3~5割程度。本科では南洋庁公学校規則に従って南洋庁が発行した教科書「南洋群島国語読本」を用い国語教育に力を入れながら学校教育を行った。
島民向け、1926年にコロールに開所。補習科で優秀な成績を修めたものはさらに木工子弟養成所に進んだ。南洋群島全域から17、18歳から23歳程度の優秀な生徒を集め(殆どがパラオ人であった)、制服や小遣い程度の金を支給されながら建築や日本語教育を受けた[50]。
これら地元住人に対する高等教育は、本国から遠いドイツの植民地下では蔑ろにされていた。戦時下には島民工員養成所となり鍛冶工、自動車機械工、電気工等なども養成した。なお、現在のパラオ地域短期大学の前身でもある。
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