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奈良時代の公卿。多治比嶋の六男。従三位・中納言 ウィキペディアから
霊亀2年(716年)従五位下に叙爵。養老5年(721年)従五位上・造宮大輔、神亀3年(726年)に正五位下に叙任される。その後、天平5年(733年)上総守、天平10年(738年)武蔵守と地方官を歴任する。
天平11年(739年)兄の中納言・広成が没すると広足が一族の長となり、天平12年(740年)正五位上、天平15年(743年)従四位下、天平19年(747年)従四位上と、橘諸兄政権下で順調に昇進し、天平20年(748年)正四位下・参議に叙任され公卿に列した。またこの間、刑部卿・兵部卿などを務めている。
天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位に伴って正四位上・中納言に、翌天平勝宝2年(750年)従三位に昇叙される。天平勝宝年間末には左大臣・藤原豊成と紫微内相・藤原仲麻呂に次いで、太政官の第三位の席次に昇る。しかし、天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、一族から多治比犢養・礼万呂・鷹主と複数の処罰者を出したことを咎められ、公卿として相応しくないとして中納言の任を解かれた[1]。以降は出仕せず邸宅に籠もったという[2]。
注記のないものは『続日本紀』による。
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