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戦前の日本の女優 ウィキペディアから
川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山)、明治4年7月18日(グレゴリオ暦1871年9月2日) - 昭和21年(1946年)12月7日)は、戦前の日本の女優。
東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「濱田屋」の女将、可免吉の養女となる[1]。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は「時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった」と当人や周囲は自慢していたようだが、西園寺公望は若い頃から知っているとした上で、福澤桃介と一緒に貞奴がついてきた話をして、貞奴を酷評している。「皺だらけの顔に白粉を塗って、まるで生湯葉にパン粉を振りかけたようだった。それでいつぞや皺を伸ばす薬は無いかと誰かに言ったそうだ。あんな鉄面皮は普通の工場ではダメだ、よほど高い熱で無ければ鍛え直すことも出来まい」と『園公秘話』でとても贔屓にしていたとは思えない言葉を残している。
1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし当初は苦労も多く、音二郎の2度もの衆議院選挙落選により資金難に陥る。1898年に2人は築地河岸よりボートに乗り、国外への脱出を図るという挙に出たこともある。この試みは失敗し、淡路島の洲本に漂着して一命を取り留めた。
1899年、川上音二郎一座のアメリカ巡演に同行した。一座の巡演に関する報道にはこれまで誤りが多く、現在分かっている限りの真相は、井上理恵著『川上音二郎と貞奴 世界を巡演する』(社会評論社2015)に明らかにされている。巡演中は日舞を披露していた。サンフランシスコ公演で、公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生。一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされたが、在留邦人の支援などで苦境を乗り越える。シアトル公演で後々有名になった『芸者と武士』を川上が生み出し、エキゾチックな貞奴の美貌と写実的な演技が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得た。
1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年にパリで行われていた万国博覧会に招かれ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行った。7月4日の初日の公演には、彫刻家ロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を彫りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで『道成寺』を踊った。
なお、当時フランスにいた西園寺公望の話によると「フランスの女優が日本芝居の死ぬ方を見せてもらいたいと言って貞奴が見せたところ、その批評は日本の死ぬ型は猿芝居よりも悪いと散々だった」そうである。
貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。
1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した(同校はのちに帝国劇場付属技芸学校に引き継がれる)[2]。
1911年に音二郎が病で死去。遺志を継ぎ公演活動を続ける。ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い、「日本の近代女優第一号」として舞台から退いた。
福澤諭吉の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家・福澤桃介(旧姓 岩崎)との関係も話題を呼んだ。桃介との馴れ初めは1885年頃にさかのぼる。馬術をしていた貞が野犬に襲われるのを、学生だった桃介が制したことで2人は恋に落ちる。1年後、桃介は諭吉の二女・房と結婚。この後、貞奴と桃介は長い別離を挟む。しかし、女優を引退した後の貞奴は、悲恋の相手だった桃介と再び結ばれる。事業面でも実生活でも桃介を支え、仲睦まじく一生を添い遂げた。2人並んで公の場に姿を現し、桃介が手掛けた水力発電用の大井ダム(木曽川)工事の際も貞奴は赤いバイクを乗り回し、現場を訪れ、他の社員が尻込みする中を1人桃介について谷底まで向かったという。
1920年頃、2人は同居を始めた。2人が名古屋市内で住んだ邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、政財界など各方面の著名人が集うサロンとなった。現在は復元・移築され、「文化のみち二葉館」として再生している。このほか、貞奴の別荘だった「萬松園」が、木曽川を臨む岐阜県各務原市に現存している[3]。
作家の長谷川時雨は、初老にさしかかった桃介と貞奴を見かけた折に「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやう」だと驚き、記している。
このように福澤桃介が離婚もせず、貞奴を連れ歩いて、妻を放置し、福澤家をないがしろにしていることを、慶応関係者は良く思っていなかったようである。
2人のロマンスは、1985年にNHK大河ドラマで『春の波涛』の名でドラマ化された。
1946年、膵臓癌により死去。享年75。その亡骸は、貞照寺に埋葬された。
「新派女優の川上貞奴」 川上貞奴(1871 - 1946) は、日本橋葭町の芸者であったが、明治27年(1894)、壮士芝居の川上音二郎(1864 - 1911)と結婚し女優業に転身。30年代(1897 - 1906)には、川上一座の欧米巡業により、花形女優として評判になった。「御髪あらひに就て御婦人方に告げる 目下歐米漫遊中 新派女俳優 川上貞奴述 日本でも西洋でも御婦人方の美容いのは御髪の艶の良く丈の長のが第一かと存じます此良い髪を持ち又活潑な精神を持ちますには御髪を洗ふ事に御注意が肝要かと思ひます之れを怠りますと毛穴が塵垢の為に塞がれ終に氣鬱 、ヒステリー、…起おこします私は先年歐…良く氣…」と記された紙片が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「新派女優の川上貞奴」より抜粋[4]
川上貞奴の出身地日本橋では、日本橋オペラの歌劇「貞奴姫」が2021年12月10日日本橋劇場に於いて、文化庁「文化芸術活動の継続支援事業」の助成を受けて記念上演された[6]。舞台設定は史実に基づき、第1幕:1885年11月3日天長節の鹿鳴館の夜会。第2幕:福沢諭吉が岩崎桃介の将来のために貞奴に別れてくれと嘆願。第3幕:1900年パリ万博ロイ・フラーの館のパーティー。第3幕:1908年帝国女優養成所開所式。発起人代表の渋沢栄一の祝辞[7]と、貞奴の訪米の経験に基づく日本人女性の地位向上を願うご挨拶[8]を再現。落語家のヨネスケ(桂米助)が貞奴の人生を語り、ヴェルディ作曲歌劇「椿姫」の名場面を融合させた斬新な構成であった。主催:日本橋オペラ研究会、指揮・構成:佐々木 修、演出・貞奴役:福田祥子。
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