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川路 高子(かわじ たかこ、文化元年(1804年) - 明治17年(1884年)10月12日)は江戸幕府外国奉行川路聖謨の継室。諸大名屋敷に宮仕した後、天保9年(1838年)勘定吟味役川路聖謨に嫁ぎ、奈良、大坂へ赴任、戊辰戦争中聖謨に自決されつつ下総国平沢村へ疎開し、江戸へ帰り没した。
文化元年(1804年)、江戸幕府大工頭大越孫兵衛喬久の次女として生まれた[1]。15歳で紀伊徳川家屋敷に奉公し[1]、徳川治紀娘で鳥取藩池田治道正室丞姫に8年間仕え、姫の死去により退職した[2]。
天保9年(1838年)4月29日、勘定吟味役川路聖謨に4人目の妻として嫁ぎ、聖謨の養父母、実母および先妻の2男2女と同居した[3]。弘化元年(1844年)聖謨が佐渡奉行に赴任した時は江戸で留守を守ったが、弘化3年(1846年)奈良奉行赴任時には次男市三郎、聖謨養父母と奈良に移った。
嘉永4年(1851年)6月10日聖謨は江戸に召還されたが、高子は奈良に残り、日記を書き送って近況を報告し合った[4]。7月2日聖謨から大坂町奉行赴任を聞き[5]、7月26日大坂東町奉行屋敷に移った[6]。
江戸に戻り聖謨が勘定奉行となると、小石川に屋敷を賜った[7]。聖謨が勘定奉行、外国奉行へと異例の出世を遂げる中、家事一切を引き受け、諸大名からの贈答品の応対を切り盛りした[8]。また、この頃前田夏蔭に和歌を学んでいる[9]。
安政6年(1859年)8月、聖謨が政争に敗れて蟄居を命じられ、小石川屋敷を引き払い、3分の1ほどの広さの番町屋敷に移った[7]。
慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発し、新政府軍が江戸に向け進軍する中、継子種倫の養子先原田市三郎の知行地上総国山辺郡平沢村(千葉県大網白里市小中)に家族を避難させた[10]。3月15日、聖謨が自決を果たすと、大正寺で葬儀を取り仕切った後、初七日の21日に剃髪し[11]、夫、幕府に対し末永く操を守る意を込めて松操と号した[12]。
慶応4年(1868年)6月7日、江戸の情勢の安定を見計らい、番町の本邸に帰った[8]。嫡子川路寛堂は平民となり番町の屋敷を引き払うと、高子は郊外の根岸に閑居したが、不便なため蛎殻町に移り、ここに落ち着いた[7]。
明治17年(1884年)10月12日、胃癌のため死去し[14]、池之端大正寺聖謨墓の隣に葬られた[15]。辞世は「いと長く思ひしかども限りある我が世の夢も今ぞさめぬる。」[16]法号は誠意院殿松操日修大姉[15]。
更年期障害のような吐き気を伴う持病があり、聖謨に「げろげろ」と呼ばれていた[14]。若年より病弱で、医者にも50までは生きられないだろうと言われていたという[7]。
美人だったとされ、嘉永6年(1853年)に聖謨が長崎でエフィム・プチャーチンと会談した際、「左衛門尉妻は江戸にて一二を争ふ美人也。夫(それ)を置て来りたる故か、おり/\おもひ出し候。忘るゝ法はあるまじきや。」[17]と妻を自慢し、場を和ませた[18]。
文才にも優れ、義弟井上清直は高子の日記を読み、「御姉さまの文、土佐日記のごとし。」[19]と賞賛した。また、高子の兄が酔った際高子を紫式部・松浦佐用姫に例えたところ、聖謨が「紫式部・松浦佐用姫ならで、紫秩父・杉浦佐用姫位ならむ。」と応えた。これを聞いた高子本人は「されど夫(それ)もまだ過ぎたらむ。紫木綿、雪駄裏皮姫位ならむ。いと顔の皮厚姫と人や笑はむ。」と更に謙遜している[20][9]。
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